クラフトビール業界を牽引するヤッホーブルーイングだが、今に至るには倒産の危機から脱した壮絶な過去を持つ。復活に至った秘話から株式上場などの今後の展望まで、井手社長に存分に語ってもらった。(「週刊ダイヤモンド」編集部 泉 秀一)

——11期連続の売上高増と業績好調のヤッホーブルーイングですが、創業は1996年とそう早くはありませんね。

ヤッホーブルーイング社長が語るどん底からの逆転復活劇いで・なおゆき/1967年、福岡県出身。電機機器メーカーエンジニア、広告代理店の営業を経て、1997年ヤッホーブルーイングの創業時に営業担当として参加。ネット通販担当などを経て、2008年より現職。「よなよなエール」「水曜日のネコ」などの個性的なビールを製造・販売
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 当社の創業は1996年です。94年の規制緩和以降、地ビールメーカーが続々と開業され日本全国で地ビールブームが興こりました。

 時期で見ると我々は地ビールブームに乗っかったような格好です。地ビールの製造免許も全国で100番目に交付されており、決して参入も早くはありません。

 しかし、実はヤッホーブルーイングの経営方針は開業当初から他の地ビールメーカーと一線を画していました。多くのメーカーが、ビールをお土産などの観光商材として販売していたのに対し、我々はあくまで「全国展開」を目標にしていたのです。

 ですから、地ビールメーカーとして最初に缶でビールを製造したのも我々です。当時はどの地ビールメーカーも瓶でしか製造していませんでした。しかし、瓶は回収のコストがかかり、小規模メーカーでは採算が合いません。また、全国展開には、規模も必要です。開業時から製造設備は他者の10倍以上の規模を持ち、業界内で異彩を放つ存在だったと思います。

「日本に新たなビール文化を築く」

——なぜ、全国展開を目指したのですか。

 ヤッホーは、親会社である星野リゾートの星野佳路が立ち上げた会社で、彼が目指したのは大手の画一的なビールだけでない、「日本に新たなビール文化を築く」ことでした。

 星野は米国への留学時、米国で火がつき始めたクラフトビールを目の当たりにし、「この文化を日本にも持ち込みたい」と思ったそうです。文化を築くのであれば、全国展開で多くの消費者に商品を届けるのは必須です。つまり、缶での製造や巨大な製造設備は必然だったのです。

 開業当時、星野の野望を聞いた私は、ただ漠然と「よくわらかないけど、なんだか凄そうなことを言っているな」くらいにしか思っていませんでしたけど(笑)。