「2万円のスリッパ」に全国から注文が殺到する理由阿部産業の高級スリッパ「KINUHAKI」。日本の生活文化の中で育まれた美しい所作をイメージし「たたむ、仕舞う、携える」をテーマに、米沢織り職人が織り上げた袴地でつくられている

 今、「2万円の最高級スリッパ」に注文が殺到している。注文主は、高級旅館・ホテル、美術館など。もちろん個人の顧客もいる。数ヵ月待ちの商品もあるが、「それでもかまわない」と待つ人が少なくない。

 このスリッパを作っているのが、山形県河北町にある阿部産業だ。

 河北町は山形県のほぼ中央部にある人口1万9000人ほどの小さな町で、昭和の時代には日本一のスリッパ産地として栄えた。元々は戦前、冬場の現金収入を目的とした農業の副業でワラ草履の産地となり、昭和15年頃には最盛期を迎える。その後、20年代後半からゴム草履が出回り、ワラ草履の生産が衰退したことで、40年代前半からスリッパ生産を本格的に開始。高度経済成長を背景に、63年には生産量が全国の30%を占めるまで発展し、最盛期には75億円規模に達した。

 しかし、平成以降、アジアをはじめとした途上国からの低価格な輸入製品に押され、最盛期に32社あったスリッパ製造会社も、今では6社に減少してしまう。

 そうした逆境の中、なぜ阿部産業は今も国産スリッパで生き残り続けるどころか、一流の顧客から注文が相次ぐようになったのか。阿部産業を訪ねた。

日本有数のスリッパ産地に危機
「良いものでも中国製に勝てない」

「2万円のスリッパ」に全国から注文が殺到する理由阿部産業の工場。20名ほどの職人がミシンなどに向かい、1つ1つスリッパをつくっている

 山形空港から最上川を渡り、車で10分ほど行ったところに阿部産業はある。2階の工場では20人ほどの女性の職人がミシンなどを使って1つ1つスリッパを作っている。夏の暑い季節に訪ねたが、工場には基本的に冷房がなく、窓を開けて作業をしているため、小気味よいミシンの音が外まで響いていた。

 阿部産業の創業は大正8年。農業の副業として草履問屋を始め、まもなく生産を開始するが、昭和40年頃から時代の流れを受けてスリッパ製造へとシフトした。当時は高度経済成長真っ只中。作れば売れるような時代で、正直なところ、品質の低いスリッパでも売れたかもしれない。

 ただその頃から阿部産業の二代目・阿部才吉さんは「東京で使われる、いいものじゃないとダメだ」と高品質スリッパにこだわり続けた。最初から東京の高級百貨店向けに商品を卸す問屋と付き合いを続け、夫婦で東京へ修行にも行ったという。