17歳の女子高生・児嶋アリサはアルバイトの帰り道、「哲学の道」で哲学者・ニーチェと出会って、哲学のことを考え始めます。
そしてゴールデンウィークの最終日、ニーチェは「お前を超人にするため」と言い出し、キルケゴールを紹介してくれます。
そのキルケゴールは、「アリサさんは“主体的真理”を持っていますか?」と静かに語りはじめるのでした。
ニーチェ、キルケゴール、サルトル、ショーペンハウアー、ハイデガー、ヤスパースなど、哲学の偉人たちがぞくぞくと現代的風貌となって京都に現れ、アリサに、“哲学する“とは何か、を教えていく感動の哲学エンタメ小説『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』。今回は、先読み版の第21回めです。

アリサさんは“主体的真理”を持っていますか?

 キルケゴールはそう言うと、手元にあるゼリーに目を向け、しばらく黙ってみせた。そして、しばらくして、静かに語りだした。

「アリサさんは“主体的真理”を持っていますか?」

「しゅたいてきしんり……?どういう意味ですか?」

 聞いたことのない言葉を出すキルケゴールに、私は尋ねてみる。

「そうですね、例えば僕は、黒ずくめのファッションが好きで、こういったファッションを追求しています。
 しかし、これは自分にとってのお洒落であって、流行とは関係がない。主体的真理とは、“自分にとっての真実”みたいなものです」

「自分にとっての真実、ですか?」

「そう。例えば流行りのファッションや髪型があるとしますよね。全身流行りに身をつつんで街中を歩いたとしましょう。
 その流行りの髪型やファッションが自分にとって“ちょっとダサい”と感じていたとするならば、“ちょっとダサい”というのが“主体的真理”になります」

「ようは、自分の気持ち、みたいなものですか」

「そうだね、自分の気持ちというか“自分にとってどうか”という意見ですね。僕は自分という存在の生きる意味についていつも考えている。例えば――」

 キルケゴールは手元のグラスを持ち上げ、こう続けた。

 「例えば、このグラス。“このグラスは何で出来ているの?”とか“水は人類にとってどういう存在であるべきか?”とかの議論は、僕にとってどうでもいい」

 私もこの意見には同感であった。授業で習った哲学者が取り上げているテーマは「国家について」や「神について」などであった。国家のあり方や、神の存在について勉強することが、どうも自分とはかけ離れたテーマに思えたので、哲学者は「小難しい議論好きな人」だというイメージを持っていたからだ。なので哲学者であるキルケゴールが「どうでもいい」と言い出したことに驚いた。

「僕は、神がいるかどうかを“実証”することには興味がない。
 ただ、自分が生きる上で神を信じた方が、生きることに真剣に向き合えると思う。だから僕は神を信じたいし、信じている。何が言いたいかというと、僕は、自分はなんのために、どう生きるかを追求しているんだ」

 ゼリーを食べ終わり、暇をもてあましていたニーチェがスマホゲームをしていた手を止め「さすが実存主義の先駆者!デンマークの尾崎豊!」とはやし立てる。

「やめてよ、その呼び方」と恥ずかしそうにしながらも、キルケゴールはまんざらでもなさそうであった。

 私は自分が自分でないような、不思議な気分に陥っていた。

 このお店の神秘的なブルーの照明によるものなのか、あまりに浮世離れしたことを話すキルケゴールのせいなのか、なぜかはわからないが、自分の人生がとてもロマンティックなもののように思えてきた。

 これまでは、このまま高校を卒業し、大学に進学して、就職して、結婚してと、なんとなく描かれた未来図に沿うように歩いてきたものの、自分の人生の意味や、何のために生きているのかを真剣に考えたことはなかったからだ。

 何のために生きているか。という壮大なテーマを考えるよりも、もっと現実的なことに目を向けつづけてきたからだ。そんな私にとって、キルケゴールの話は上空から、世界を覗いているようでとても神秘的であったのだ。