「初詣ベビーカー論争」は何が間違っているのか?

 新年早々、「ベビーカー論争」である。ご存じの方も多いかと思うが、これは都内のあるお寺が初詣でのベビーカー利用を自粛するよう「お願い」したことに端を発する。このお願いを書いた看板の写真がツイッターで投稿されたことで「お寺に対する批判」が噴出したが、その一方で、混雑する初詣にベビーカーで来ること自体が問題だという「母親批判」も噴出。少子化を助長するとか、女性の社会進出を阻害するといった意見が相次ぎ、ネットで大論争になった。しかしこの件はたんに少子化や女性活躍推進などの問題だけでなく、もっと広範な、いまの日本を覆っている社会問題に絡んでいる。だからこそ大論争になったのだが、その問題とは、「差別」と「マナー」の問題だ。

初詣でのベビーカー自粛は
差別になるのか?

 昨今、ネット社会がもたらした息苦しさや窮屈さのひとつが、行き過ぎた「差別批判」「マナー批判」にあることは、多くの人が指摘するところだと思う。世界中で富の格差を拡大させる資本主義や、過労死を生む長時間労働に対する批判はあってしかるべきだが、その批判も行き過ぎると、経済のダイナミズムを殺ぐことがある。実際、18世紀半ば、資本家による労働の搾取に対する「批判」から生まれた共産党宣言も、それが行き過ぎて巨大な官僚主義を生み出し、最終的には、一時はアメリカと世界を二分するほどの国力を誇っていたソ連の崩壊にまでつながる。「差別批判」や「マナー批判」も同様に、行き過ぎると社会はダイナミズムを失い、やがて崩壊するのだ。

 今回のベビーカー論争においても、批判が相次いでいる。当初は、ベビーカー自粛をお願いしたお寺に対しての批判だ。「ベビーカーを差別することは、車椅子の障害者を差別することと同じだ」という論理だ。しかしお寺が、初詣でのベビーカー自粛をお願いすることは差別になるのだろうか。あるいは「お願い」ではなく、「禁止」していたとしたら、これは差別になるのだろうか。答えは「どちらとも言えない」である。

 そもそも差別とは「認識」の問題であり、それが差別になるかどうかは、時代や社会に拠る。昔のアメリカでは、黒人を奴隷として扱うことを誰も差別とは考えていなかった(だから、奴隷制が維持できていた)。リンカーンが奴隷解放をした後も、黒人差別は続き、1950年代までアフリカ系アメリカ人には公民権もなかった。それが、キング牧師やマルコムXのような人たちによる「啓蒙」のおかげで、アフリカ系アメリカ人の人たちは権利主張するようになり、白人たちの認識も変わり、社会も変わり、やがて大統領を生み出すわけだが、つまり誰かが啓蒙しなければ、差別されている当事者でさえ、それを差別だと「認識」できず、差別は維持される。

 たとえば、黒人差別を撤廃させるには、当事者である黒人自身だけでなく、差別する側の人間(白人)の多くが「バスの白人専用のシートに黒人が座っただけで殺される」といった事態は間違っていると「認識」する必要があるのだ。これは、女性差別や障害者差別、性的マイノリティ差別など、あらゆる差別問題に共通するメカニズムである。

 ただし、何が撤廃すべき差別なのかどうかは、公共性に拠る。バスは明らかに公共の交通機関なので、肌の色で座る場所を分けることは差別になる。そして、公共性というものは人権と深く結びついている。企業が女性だというだけで採用しない、採用試験さえ受けさせないというのは、働く権利という人権を阻害しているから女性差別にあたる。