復員から10年、
欧米視察を決意する

「我々はこれから世界一の下着メーカーを目指す。最初の10年で国内市場を開拓し、次の10年で国内における地位を確立する。70年代、80年代は海外市場へ進出し、90年代には世界企業を実現するんや!」

 それは昭和25年(1950年)の正月、忘れもしない経営状態最悪の時に、社員の気持ちを奮い立たせる目的もあって発表した“50年計画”だった。

 計画も身の丈に合わなければほら吹きで終わるのだが、幸一の場合、ぶかぶかな服に自分の体を合わせていくようなところがあった。

 最初の10年、これまで見てきたように何度も倒産の危機があったわけだが、なんとか国内市場を開拓するという第1目標を達成し、さらに第2目標の“次の10年で国内における地位を確立する”ことも視野にとらえつつある。

 彼は“70年代、80年代は海外市場へ進出”するという夢の実現に向け、スケールの大きな動きを見せ始める。

 その第一弾とも言えるのが、下着ブームに沸く昭和30年(1955年)、アメリカのワーナーブラザーズ社と折半で日本ワーナーブラザーズ社を設立したことだ。

 実はこの話は、かつて提携していたエクスキュージットフォーム社の副支配人だったリチャード・ソリアーノが持ち込んだものであった。幸一の経営手腕を見込んでのことである。それを好機として、幸一は海外のファウンデーション作りのノウハウを、これまで以上に積極的に吸収していく。

 そして昭和31年(1956年)、彼はさらに次の布石を考えていた。

 (欧米諸国をしっかりと自分の目で見ることによって、和江商事がこれからどういった道に向かっていくか、自分なりのイメージを持っておきたい)

 自分が徴兵されたとき、アメリカの豊かさなどほとんど知らされていなかった。精神力でなんとかなるという幻想を抱いて再び戦うつもりはない。彼は負けられない戦いを前に、アメリカを自分の目で見たいという欲求を抑えることができなかったのだ。

 目標とする会社のイメージを持たずにがむしゃらに突き進んでいくのは無駄が多い。日本ラバブルやエクスキュージットフォーム社の日本工場は見学したし、彼らのセールスレディも目の当たりにしたが、やはり本場を見ておきたいと考えたのだ。