英語メディアが伝える「JAPAN」なニュースをご紹介するこのコラム、今週は「オフレコ。書いたらその社は終わり」などと発言した大臣について……ではなく、脱原発か否かについてです。率直でぶしつけな態度や荒っぽい言葉遣いには前提として信頼やリスペクトが必要なように、生命を脅かすリスクを受け入れるには大前提としてそこに信頼が必要だという話などです。(gooニュース 加藤祐子)

20年かけての脱原発と

 カメラや記者を前にした民主国家の政治家としての振る舞いをわきまえない人については、コメントするのもバカバカしいです。東北放送が大きく取り上げて大臣辞任にまで至ったこの騒ぎについて、たとえば英BBCは「ただでさえ不人気な菅直人政権に対する圧力は強まるだろう」と松本龍復興相の辞任を伝えています。東京特派員のローランド・バーク記者はわざわざ松本氏の「B型だから」という不見識な釈明についても解説。「血液型のせいにするなど荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、日本では血液型は性格に影響すると信じられている。B型の人はがさつな性格(abrasiveness)だと言われている。少なくとも松本氏については、その通りだったと言えるだろう」と。わあ、ありがたいなあ(私はB型です)。

BBCサイトの編集者は面白がってるのではないかと思うのですが、日本の政治家の失言集まで作成。「失言しやすい日本の政治家」という見出しで、麻生太郎、柳田稔、森喜朗、石原慎太郎の各氏が紹介されています。

 こんなバカバカしい話題をくどくど書くつもりはありません。なんといったって、B型は短絡的だそうなので。なので、もっと大事な原発の話に移ります。

 原発か否か、それが問題だ。この議論が今、日本以外でも繰り広げられています。7月3日付の英紙『フィナンシャル・タイムズ(FT)』は前原誠司前外相に取材し、今から20年の間に段階的に「脱原発」を実現するべきという発言を掲載しました。前原氏は6月末にも「今の民主党は少しポピュリズムに走りすぎている。私も日本が20年先に原発をなくすことは賛成だ。しかし、振り子が急激に脱原発に振れた時、皆さんの生活が一体どうなるか考えるのが本来の政治だ」と発言していたことが報道されています

 FTの取材に対して前原氏はさらに踏み込んで、電力の発電方法と使い方に革命的な転換が必要だと発言。原子炉の新設を止め、「もんじゅ」を諦めるべきだとも述べています。

これを受けてFTは、「菅首相の後任として有力視される前原氏によるこの発言は、日本が原発危機を機にエネルギー政策を大転換させるのではないかという期待感を高めるものと見られる」と書いています(それにしても前原氏は、『ワシントン・ポスト』をはじめ米英メディアの受けがいい)。

 ところでこの同じFTは4月下旬に「原子力の時代終了ではなく、復活させるべき時」という社説を発表していました。

「エネルギー市場にひどい不安定や電力不足を引き起こすリスクを伴わない形で、化石燃料や代替可能エネルギーでこの不足分を埋めるのは、当分は不可能だ。単純に言えば、われわれは多様なエネルギーな供給源を必要としていて、その中には原子力も含まれる」という主張でした。そして最新の技術を駆使して原発の安全性を確保していくべきだとも。

 ひとつの新聞社の中に、社説があって、それとは少し異なる記者個人、デスク個人の意見がある。それは当たり前のことなので(むしろ全社的に意見統制をするようなメディアの方が不気味です)、同じFTの中でも記事ごと筆者ごとに少しずつ原発に対する姿勢が異なっているのを読み分けるのは、興味深いことです。

 原発か否か。日本の原発政策の転換点になるのかと注目されていたのが、九州電力の玄海原発です。佐賀県玄海町の岸本英雄・玄海町長は結局4日に、運転再開に同意。古川康・県知事も同意の意向を示しています。しかし、そもそも国のエネルギー政策の転換点となりかねない大きな判断を政府が自治体の首長に預けてしまったことを、2日付の米紙『ニューヨーク・タイムズ』は批判していました。

 マーティン・ファクラー東京特派員は、「政治指導力の弱さという病のような問題を抱える国で、日本における原子力発電の未来を決定するかもしれない重要な決断は、ふだんは目立たない南の県の地元知事の役目になった」と皮肉っぽく書いています。「病のような問題を抱える」と訳したのは「plagues」という動詞。もとの名詞の「plague」は本来「ペスト」の意味で、転じて「災い」などの意味に。『ロミオとジュリエット』には「どちらの家も呪われろ」という意味で「A plague on both your houses」という有名な台詞があります。

 話を戻します。電気事業法にもとづく決まりでは、停止中の原発再開にOKを出すのは中央政府の役割です。しかし福島第一原発の事故以来、政府は再開を認めず、地元の理解が必要だとして「地元自治体の首長にも再開容認の判断を示すよう求めて」いると記事は書きます。最初に判断を求められたのが佐賀県の古川知事で、そのせいで知事は「安全性への不安vs電力不足の脅威」を秤にかけなくてはならなくなり、「日本の原子力の未来についての目安のようなものになってしまった」と。「目安」と訳したのは「bellwether」という単語で、もとは羊の群れのリーダーに鈴をつけて群れの動きを把握したことから「鈴をつけられたリーダー羊」の意味で、今では何かの動きの指標をなるものならたいてい何でも「bellwether」と呼びます。たとえば20世紀以降のアメリカの大統領選では、ミズーリ州を制した候補がほとんど必ず当選するため、同州は「bellwether state」と呼ばれています。

 再度、話を戻します。日本の原発政策の「bellwether」にされた古川知事は、同紙の6月末の取材に対して、重い責任をいきなり任されたようだとコメントしていました。原発を再開しないと決めれば日本は、2022年までに原発全廃と議決したドイツよりも早く脱原発国になるかもしれないと。

 記事は「原発がなくなれば電気料金上昇や停電で経済はさらに打撃を受ける恐れがあると、日本の経済界と強力な原発ロビーが警告」しているし、菅首相も原発全停止による経済への影響を懸念していると説明。そんな状況の中、玄海原発の2号機と3号機は再稼働されそうです。けれども『ニューヨーク・タイムズ』のこの記事は、日本のエネルギー政策の転換点ともなりかねないこの「重たい決断を、なぜ佐賀がすることになったのか、多くの人は途方にくれている」と書きます。それは菅首相が日本の今後のエネルギー政策について明確な方向性を示そうとしないからだと、古川知事は批判していると。中央政府が責任を持つべき決断から「首相は逃げている」と、知事は「fumes(憤っている)」のだと。

 さらに記事によると、玄海町の岸本町長は取材に対して、町の経済が原発に依存していることを認め、地元の人たちは安全性よりも原発停止による経済的影響の不安を気にしていると話したのだとか。さらに、ファクラー記者が取材した地元の人は、自分たちの生活が原発に密着しているのを承知しており、町長に従うしかなく、「自分たちは沈黙の町になってしまった」のだと話したのだそうです。

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