引退してもなお、その人気が衰えるどころか、さらに増している森本稀哲氏。札幌でのサイン会に続き、今週の東京でのトークショー&サイン会は満員御礼! ビジネスパーソン必読の森本稀哲氏の処女作『気にしない。どんな逆境にも負けない心を強くする習慣』では、少年時代から北海道日本ハムファイターズ、横浜DeNAベイスターズ、埼玉西武ライオンズで迎えた引退試合まで、40にも及ぶエピソードを収録。著者自身が抱えた問題から何を学び、どのように解決してきたのか――今日から確実に超ポジティブになれます! 読後、前向きになれるコンテンツを本書から抜粋し、紹介します。

去年のことは忘れてもう一度がんばり直そう

失敗を恐れず、成功に慢心しない森本稀哲(もりもと・ひちょり)
1981年1月31日生まれ。東京都出身。小学1年生のときに、汎発性円形脱毛症で髪を失い、人の目を気にする少年時代を過ごす。そんなとき、友だちの誘いをきっかけに野球を始める。野球でよかったのは「帽子をかぶっていられるから」という思いがあるなか、いいプレーをすると周囲から認められ笑われなくなり、徐々に頭角を現す。
帝京高校の主将として第80回全国高校野球選手権大会に出場を果たし、1999年、ドラフト4位で日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)に入団。2006年から2008年まで3年連続ゴールデングラブ賞を受賞し、2007年、ベストナインに選ばれる。かつてはコンプレックスだった頭を使うコスプレパフォーマンスや粘り強いプレースタイルなどで話題を呼び、一躍人気者に。その後、2011年、横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)へ移籍。2014年、埼玉西武ライオンズへテスト入団。2015年9月、17年間にわたるプロ野球人生を終え、現役を引退。
通算成績は、1272試合、3497打数904安打、33本塁打、521得点、267打点、106盗塁、打率.259。2006年、2007年はパ・リーグ最多得点。
現在、野球解説やコメンテーターとしてのテレビ・ラジオ出演のほか、大学での講義や講演活動も行っている。
森本稀哲twitter @onifukksencho

 結果にかかわらず、真剣に取り組んだ後には、いい経験しか待っていない。だから、いかにがんばったかという過程が大事なんです。

 とはいえ、しなくていいなら失敗はしたくないものです。

 僕の一番の失敗は、僅差で負けている試合の9回2アウトで代走として出場したときです。なんと、けん制タッチアウトで、試合終了。

 その瞬間、球場が「はっ?」というため息交じりの雰囲気になりました。

 日本ハムファイターズの本拠地が東京ドームだった時代、まだ若いときで、入団3、4年目くらい。1軍のゲームでした。

 代走としての反省は、絶対にアウトになっちゃいけないところでアウトになってしまったこと。この経験をしたおかげで、代走の重要さを知り、自分がアウトになったら、どうなるのかを考えるようになりました

 塁を進むという意欲も大事ですけど、前の塁に進むだけが走塁じゃないと考えるようになりました。

 そんな失敗とは別に、僕の中での成功体験は、やはり2006年、2007年の北海道日本ハムファイターズでのパ・リーグ連覇。ハードな戦いでした。

 2006年のシーズンが終わると、優勝の原動力だった主力選手が相次いで退団。3番バッターだった小笠原道大さん、チームの顔だった新庄剛志さん、中継ぎで大活躍していた岡島秀樹さんたちがいなくなり、厳しい陣容で2007年の始動を余儀なくされました。

「これはヤバイぞ」

 その年、兄貴分として慕っていた新庄さんが背負っていた背番号1を受け継いだ僕は、「去年のことは忘れてもう一度がんばり直そう」と自分に言い聞かせながら、キャンプやシーズンを過ごしていました。

 去年みたいにうまくいかないぞという自覚があったぶん、自信より不安が大きく、チームの戦力ダウンを肌で感じていました。不安は嫌なかたちで的中して、開幕してからしばらく勝てずに最下位でした。

 2006年の日本ハムは打つチームでした。そのときの成功体験から、変化への対応を学び、打てないならどうやって勝つかをみんなで考え、2007年は1点を守り勝つチームに変わっていきました。結果的に、役割分担がはっきりしてきて、何が足りないのか、それを補うにはどうすればいいのかを、突き詰めていったのです。

 リーグ連覇に向けてみんなで準備し、力を出しきれたのは、前年の優勝という成功体験をベースにしながら、慢心せずに準備できたからに他なりません。

 失敗からも成功からも多くの学びはあります。けれども、今でもけん制アウトになってベンチに帰る際の、「おまえ、なにやってんだ」みたいな顔が忘れられないので、しなくていい失敗はしないに越したことはありませんね。