現代日本が抱える機会不平等にも通じる<br />“経済至上主義”ダイヤモンド社刊
2100円(税込)

「経済的自由によって平等を実現できなかったために、ブルジョア資本主義はそのもたらした物質的恩恵にもかかわらず、プロレタリアだけでなく、経済的、社会的に大きな恩恵を受けた中流階級の間でさえ、社会制度としての信用を失った」(ドラッカー名著集(9)『「経済人」の終わり』)

 生産手段を人民のものにするというマルクス社会主義の処方もブルジョア資本主義と同様、約束した平等は実現できなかった。しかも両者は、経済を中心に置く経済至上主義だった。

 ドラッカーの処女作、一九三九年の『「経済人」の終わり』でいう「経済人」とはエコノミック・マン、すなわちこの経済至上主義のことだった。しかし、当時、経済至上主義たるブルジョア資本主義とマルクス社会主義に代わるものとしての脱経済至上主義は、ファシズム全体主義しかなかった。

 “現代社会最高の哲人”とされ、“マネジメントの父”とされたドラッカーの問題意識は、ここに端を発していた。

 しかし、ファシズム全体主義という逃げ場さえ用意されていないとき、社会から疎外された者はどこへ行くのか。だからこそ、ドラッカーは行き過ぎを懸念しつつも、日本の会社主義に期待していたのである。あるいは、カルト集団が事件を起こしたとき、社会の病の劇症としてとらえたのだった。

 経済のために生き、経済のために死ぬという経済至上主義からの脱却を説いたドラッカーの問題意識は、じつに約70年を経た今日、ニート、フリーター、契約社員、委託先社員、アルバイトなど、非正規社員の問題を抱えるわれわれの問題意識とまったく同じである。

 ドラッカーは、かつてフォード・モーター社が、賃金を三倍に引き上げることによって、定着率を高めて労務コストを下げ、米国の中流社会化の口火を切る偉業を成し遂げたという昔の物語を伝える。その志を、現代日本に期待するのは無理なのか。

「一人ひとりの人間は、その意味を受け入れることも自らの存在に結びつけることもできない巨大な機構の中で孤立している。社会は、共通の目的によって結びつけられたコミュニティではなくなり、目的のない孤立した分子からなる混沌たる群集となった」(『「経済人」の終わり』)