プロ野球とJリーグの両方で社長を務めた初めての男、藤井純一氏による集中連載。第3回は、いよいよ北海道日本ハムファイターズへ。常務執行役員事業本部長として着任した彼が目にしたのは、セレッソ大阪以上の当事者意識の低さだった…。

日本ハムファイターズ、北海道へ移転

 私がセレッソ大阪を去ったのが2004年。同年、日本ハムファイターズは本拠地を北海道に移した。

 ファイターズは長年、東京を本拠地としてきた球団である。それがなぜ、北海道への移転にふみきったのか。それはとりもなおさず、「東京を脱出して起死回生を図る」ためだった。それまでのファイターズのホームグラウンドは東京ドーム。人気球団・読売ジャイアンツと同じ球場だった。

 ジャイアンツに比べて、ファイターズの存在感はあまりに薄かった。巨人戦では埋まる客席が、ファイターズの試合日には閑散としていた。しかも東京ドームの使用料は高額で、集客力のない球団にとっては大きな負担となっていた。

 さらに、2003年には「球界再編構想」がプロ野球界に波紋を広げた。オリックスブルーウェーブとの合併を余儀なくされた近鉄バファローズ。そして弱小球団を解体させチーム数を減らそうとする1リーグ制移行計画。この計画自体は実行に移されることはなかったが、危機感を募らせるに十分な流れであった。そんな中、ファイターズは北海道への移転を実現した。

 こうして北の大地に移転を果たしたファイターズだが、その先行きは極めて不透明なものであった。移転の年の客の入りは上々。新庄剛志、小笠原道大といったスター選手が人気を呼び、ファイターズの試合は道内のニュースにも大きく取り上げられていた。しかし、これが地域に根付くこととイコールではないのは明らかである。

 今と同じ人気をずっと持続させること、今以上に大勢の人にファイターズを愛してもらうこと、10年後、20年後も「私たちの町のチーム」と思ってもらえるようになること。これができてこそ真の意味で北海道に根を下ろしたことになる。しかしこうした持続力は、勢いだけでは手に入らない。戦略と、粘り強さと、そして「どういう球団にしていきたいのか」というビジョン。この三つが不可欠となる。

 しかし当時のファイターズは、そのいずれも持ってはいなかった。