「仕事相手が全員年下」「自己模倣のマンネリ地獄」「フリーの結婚&子育て問題」……Twitterで話題を呼んだ〈フリーランス、40歳の壁〉。本物しか生き残れない「40歳の壁」とは何か、フリーとして生き抜いてきた竹熊健太郎氏がその正体に迫ります。著書『フリーランス、40歳の壁』では自身の経験のみならず、田中圭一さん(『うつヌケ』)、都築響一さん、FROGMANさん(『秘密結社 鷹の爪』)ほか、壁を乗り越えたフリーの話から「壁」の乗り越え方を探っています。本連載では一生フリーを続けるためのサバイバル術、そのエッセンスを紹介していきます。
 連載第2弾は、とみさわ昭仁×竹熊健太郎対談!サラリーマンを辞めてはフリーランスになり、再びサラリーマンに戻るというサイクルを繰り返すという、“フリーランスにならざるをえない”宿命を負ったとみさわさんは、竹熊さん曰く「とてもよく自分に似ている」フリーの方の一人です。フリー人生を経て、現在はマニタ書房という特殊な古本屋を営みながら、ライター業を続けるとみさわさんに、フリーになる、つまり自分の「好き」を貫くメリット・デメリットを、ご自身が営まれる特殊古書店・マニタ書房にてうかがいました。一生、フリーを続けるためのサバイバル術がここに!

「50歳の壁」を越え、古書店を開業。

竹熊健太郎(以下、竹熊) この本(『フリーランス、40歳の壁』)が上手くいけばなんですが、実は「50歳の壁」をテーマにも出来たらと考えているんです。

とみさわ昭仁(以下、とみさわ) 実際、僕も「50歳の壁」を味わいました。ゲームフリークに契約社員として6年ほどお世話になるなかで、だんだん自分の立場がきつくなってくるんです。昔あった「フリーランスになりたい病」は、40代半ばということもあるし、ゲームフリークに助けてもらったので無くなっていたんです。最初はゲームフリークに「もう来なくていい」と言われるまで働くつもりでした。
 ところが、年毎に報酬が下がっていったり、自分がロートルになっていくのを感じたんです。当時は『ポケットモンスター』の大ヒットでやる気満々の若者が続々と入社してくるんです。コンピューターに子どもの頃から慣れ親しんだ世代で、やる気もあるから給料なくても働きます!くらいの勢いの子たち。僕は当時、田尻社長よりも年上ですごく報酬も貰っていたし……。あと、僕はシナリオしか書けなかった。若い子はプログラミングも出来るし、シナリオも書けますという子が多かった。「ああ、そうか俺はロートルなのか」と思いました。

竹熊 自分の限界を感じた?

好きなことをしながら、死なないように生きていく方法――とみさわ昭仁の場合。【後編】とみさわ昭仁(とみさわ・あきひと)
1961年、東京生まれ。神保町で特殊古書店マニタ書房を経営するかたわら、ライターとしても書評、映画評、ゲームシナリオ、漫画原作など様々な分野で執筆。変な歌謡曲レコードのコレクターとしてテレビ・ラジオに出演することも度々。著書に『底抜け!大リーグカードの世界』(彩流社)、『人喰い映画祭』(辰巳出版)などがある。最新刊に『無限の本棚〈増殖版〉』(ちくま文庫)。

とみさわ そういうことかもしれません。それで2008年8月に辞めます、と会社に言いました。47歳の頃ですね。妻も弱っていっていましたし、歯を食いしばってでも会社に残るべきだったかもしれません。でも、自分のなかでどうしても納得がいかなかった。ゲームフリークの2度目の退社の後には、もう今まで自分がライターをしていた頃のフィールドだったゲーム雑誌がほぼ無くなっていました。残っていたのは『ファミコン通信』ぐらい。その頃、フリーライターとしてのキャリアが27、8年あった訳ですけど、その仕事が完全に途切れてしまった。
 そのとき、僕はいつも人に助けてもらってばかりですが、『桃鉄』を作ったさくまあきらさんに仕事をください、と頭を下げました。「桃鉄」の一部を手伝わせて頂きました。そこで、なんとか自信を取り戻しました。あと、ゲームフリークにいた頃に完全に趣味として映画のブログを始めたんです。不思議なことに映画は大好きだったのに、ライターとして映画の仕事はしたことがなかったんです。

竹熊 そこも僕と一緒だ(笑)。

とみさわ 完全に趣味として始めた映画のブログ(2007年~)ですが、「人喰い映画祭」として同人誌として文学フリマに出したんです。2009年ですが、友達だった寺田克也に格安でイラストを描いてもらって(笑)。これを600部売ったところで、辰巳出版さんから本にしましょう、というお話がありました。300本の人喰い映画を紹介するという内容です(笑)。これでなんとかフリーライターとしてやっていけるかな?という感覚を得ました。その後、僕の実家の方に戻って細々とやっていました。ただ軌道に乗ったとはいえない状態が続きました。そして2011年に妻が亡くなってしまうんです。

竹熊 お子さんはどのくらいでしたか。

とみさわ 今、中3ですので当時は小学校高学年ですね。幸い両親が健在だったのと、姉が面倒をみてくれました。ただ妻が亡くなったときは茫然としました。仕事も少なかったし。
 で、少し話を遡りますが、中学の頃に望月三起也にハマって漫画を買いに神保町とかに通ううちに古本マニアになったんですね。若い頃から。で、「よい子の歌謡曲」編集部にいた頃には古レコードマニアにもなりました。で、古本マニアは皆そうだと思うんですが、自分でゆくゆくはお店を持ちたいと思うものだと思うんです。
仕事もなくなり妻が亡くなったときに、時間と妻の生命保険で残ったお金が手元にあったんです。そして2012年に「マニタ書房」を開業するんです。ちょうど妻の命日の一年後を開業の日に決めました。
 資金は妻が残してくれたものだし、妻が僕の夢を叶えてくれたと言っていいと思います。

好きなことをしながら、死なないように生きていく方法――とみさわ昭仁の場合。【後編】マニタ書房(東京・神保町)店内

竹熊 フリーライターの身の処し方として、50歳を越えられて古本屋を始めて、こういったマニアックな書店を始められたと。お店に立ちながら、ライターとしての仕事も同時並行で出来ますものね。

とみさわ 結果的に両立することとなりましたね。最初は古本屋を本業として力を入れてやるはずだったのですが。元々ライターとしての知り合いの方も多いですし、雑誌とかに多く「マニタ書房」を取り上げて頂いたんです。『散歩の達人』『BRUTUS』『本の雑誌』とかに。割と注目をして頂いて、結果ライターとしての仕事が増えたんです。いまやゲームの仕事はほとんどないですが、映画とか古本を扱う原稿の仕事が増えていきました。