「リベラルアーツ」のひとつに数えられる「音楽」。音楽の発展を支えてきたのは、技術の発展でした。とりわけ大きな役割を果たしたのが、紙と印刷の技術から生まれた「楽譜」の誕生です。基本的に即興で楽しまれてきた音楽が、記録メディアである楽譜の登場により、再現・応用されやすくなったのです。楽譜出版という産業もうまれました。その歴史を振り返ってみましょう。

 古代ギリシアの知の集積は、4世紀以降に東ローマ帝国を経てイスラム世界に移ります。イスラム帝国は古代ギリシアの数学、天文学、医学といった多様な知識を保存し、学びました。一方、西欧世界はゲルマン大移動などをはじめとする動乱によって、書物や修道院など文化遺産が破壊された結果、古代ギリシア文化と断絶します。

 8世紀にイスラム帝国はスペイン全土を占領し、最大の版図を獲得します。キリスト教圏のヨーロッパは、スペインを1492年にようやく奪回。この間、イスラム帝国がスペインに遺したギリシア語やアラビア語訳の文献を発見し、この古代ギリシア・ローマの文化を模範に、ヨーロッパは神や教会を中心とする世界観から、新しい人間中心の世界観、ルネサンスへと転換していきます。

 そうした価値観の転換を背景に、中世時代には私たちがよく知る世界の名門校が誕生しています。

 たとえば、ボローニャ大学の創立は1088年、オックスフォード大学は11世紀末、パリ大学1150年、ケンブリッジ大学1209年、プラハ・カレル大学1348年、ウィーン大学1365年……これほど多くの大学がこの時期に設立されたのは、西欧世界の古典を探求する目的があったからではないでしょうか。

 これらの大学の共通点として、自由7科(リベラルアーツ)の習得が義務づけられており、そのひとつである音楽の教材として使われたのが、イタリアの哲学者ボエティウス(480~525年頃)の『音楽教程』です。中世の大学においてこの著書は、必読の書でした(※4)。内容については、金澤正剛著『中世音楽の精神史』にわかりやすく綴られています。

 さて、この後の西洋音楽の拡大と切っても切れないのが、楽譜の流通です。

リベラルアーツである音楽を進化させたイノベーション:「メディア=楽譜」の誕生現代の私たちが目にする楽譜の先祖にあたる「ネウマ譜」

 まず紙は、すでに2世紀の中国で発明されていました。9世紀頃、グレゴリオ聖歌を歌う修道士たちが「ネウマ」という記号を使って旋律の高低の動きを記録した「ネウマ譜」を遺してくれているおかげで、現代の私たちも中世の音楽を再現し、聴くことができます。ネウマ譜の登場から長らく、楽譜は手書きで彩色され、美しい美術工芸品でもありました。その所有者は、王と貴族、そして教会や修道院です。楽譜のコレクションは富の象徴でもあったのです。

 そして印刷については、金属活字と木版印刷は高麗(朝鮮)で13世紀に、そして15世紀朝鮮・李朝の世宗の時代に活版印刷が実用化されました。ヨーロッパの活版印刷は1450年ごろのドイツで、ヨハネス・グーテンベルク(1400年頃~1468年)によって創始されます。グーテンベルクは「42行聖書(※5)」などの刊行を通じて宗教改革に寄与し、知の基盤となる書物の大量流通を可能にして社会に大きな影響を与えました。

 新技術と、変化を生み出す機運(ルネサンス)が共存した結果、社会を大きく変化させるイノベーションが実現したのです。

 やがて音楽の譜面を印刷して出版する、という新しいビジネスを始める人物が出現します。ヴェネツィアのオッタヴィアーノ・ペトルッチ(1466~1539年)です。1501~20年の間に61点の楽譜集を出版しました。ペトルッチがヴェネツィアで最初に出版した『オデカトンA(Hermonice Musices Odhecaton A)』は、複数の作曲家による96曲の多声歌曲を収録した楽譜集で、最古の印刷譜と言われています(※6)

 ペトルッチは、垂直方向の音符と、水平方向の譜線、それに歌詞を、それぞれ版を分けて刷る方法で合理化したそうです。それでも手間がかかり、最大150部の印刷が限界だったため、値段は手書き美術本と同程度に高価だったのです(※7)

 しかし、ペトルッチの挑戦を機に、ヨーロッパのほかの豊かな都市でも楽譜出版を行う事業者が増えていきます。コストダウンと技術革新が続き、ローマ、フィレンツェ、パリ、アントワープ、ニュルンベルク、アウグスブルクなどに楽譜出版社が誕生しました。

 楽譜が「美術品」(※8)から、作曲家による音楽作品の「媒体(メディア)」へ大転換し、王侯貴族だけでなく、大航海時代を迎えて富裕になった市民階層に流通する可能性が出てきたのも、ルネサンス期(15世紀~16世紀)でした。皆川達夫著『ミュージックギャラリー(8)楽譜の歴史(※9)』には、古代ギリシアの文字による楽譜から、最初期のネウマ譜を経て近代記譜法の初期に至るまで、現物の写真で紹介されています。一読すると、楽譜が形成されていく過程がよくわかって楽しい1冊です。

 実は、このルネサンス期に、日本人が初めて西洋音楽に出合うことになります。

 ローマ・カトリック教会(イエズス会)の宣教師フランシスコ・ザビエル(1506~52年)が九州に到着したのが1549(天文18)年のこと。山口や京都でも布教しています。
 ここで修道士が歌ったグレゴリオ聖歌こそ、日本人と西洋音楽との初めての出合いです。そして数年後には、日本人信者によるラテン語の合唱も行われ、1581年には、織田信長(1534年頃~82年)が安土でキリスト教の学校(セミナリオ)で学ぶ少年たちの声楽と器楽演奏を聴いたといいます(※10)

 また、九州のキリシタン大名・大友宗麟(1530~87年)らによって1582年にヨーロッパに派遣された天正遣欧少年使節団は、1590年に帰国します。豊臣秀吉(1537~98年)の前で、持ち帰ったリュート、ハープ、クラブサンなどを演奏しました。秀吉は3回繰り返し演奏させて喜んだ、と伝えられています。さらに徳川幕府成立後の1605年には、長崎で赤黒2色刷りの典礼書が印刷され、この中にグレゴリオ聖歌が入っていました(※11)
 しかし、秀吉のバテレン追放令(1587年)と禁教令(1596年)、徳川幕府による1612年以降の禁教令で西洋音楽は断絶し、1868年の明治維新前後まで、日本では西洋音楽の長い空白期間ができました。後の日本における西洋音楽普及の歴史は、あらためてご紹介しましょう。

※4 金澤正剛『中世音楽の精神史:グレゴリオ聖歌からルネサンス音楽へ』講談社、1998年
※5 1ページ当たり42行×2段組みだったので、こう呼ばれる。通称「グーテンベルク聖書」。
※6 柴田南雄『西洋音楽の歴史 上』音楽之友社、1967年
※7 大崎滋生『楽譜の文化史』音楽之友社、1993年
※8 フーゴー・ライヒテントリット『音楽の歴史と思想』服部幸三訳、音楽之友社、1959年
※9 音楽之友社、1998年
※10 皆川達夫『中世・ルネサンスの音楽』講談社、1977年
※11 宗村泉「わが国の印刷の過去、現在、未来」「表面技術」第61巻第12号所収、表面技術協会、2010年