27年前、日本に移住してから、カラダで覚えた日本語がいくつかあった。そのうちのひとつは、「ゴールデンウィーク」だ。中国にいた頃はその理解に苦しんだ。一応は中国語では“黄金週”と訳されており、何を指しているのかもわかっている。しかし、なぜ5月最初の週の大型連休は「黄金」の週間と形容されなければならないのか、長い間、実感のこもった理解ができなかった。

 さらに、「連休」という言葉の前に「大型」という修飾語を入れるのに対しても、かなり抵抗感を覚えた。この無機質で工業製品や設備を思わせるような言葉に、心躍る長い連休から連想できる、あの明るく楽しい雰囲気を微塵も感じ取ることができない。より詮索すると、「大型」がある以上は、「中型」「小型」ないし「微型」があってもおかしくない。だが、そういう表現は聞かれない。

長くは続かなかった
ゴールデンウィークの興奮

 長い間、長い休暇が旧正月にしかなかった社会主義国に暮らしてきた人間としては、レジャーや娯楽、連休に対しての発想がどうしても貧困だった。もちろん、大型連休の重量感も体に伝わってこなかった。

 初めて日本でゴールデンウィークを送る時、私は興奮して遠くへ旅行した。旅をする時の開放感と新緑に薫る春風にうっとり陶酔し、黄金でも買えない至福のひとときを未知の土地で送った。その時、はじめて5月の連休をなぜ黄金と形容するのか、何となく理屈ではなくカラダで理解した。それ以降、“黄金週”が来る度に、私はどこかを旅行する習慣になってしまった。

 これまでメディアでこうした興奮と習慣について、何度か披露したことがあった。しかし、もうひとつの理解と新しい習慣にはあまり触れなかった。

 つまり、以上述べてきたような興奮は実は、長く続かなかった。ゴールデンウィークの日本はどこに行っても人がいっぱいで、日々すでに体験し尽くしたはずの混雑のひどさが、この期間中にさらに輪をかけたものへと膨張する。そうなると、旅行は至福の非日常性を楽しむ行為ではなくなった。むしろ、そのひどすぎる混雑ぶりに、いかに我慢できるのかを体験する「自虐行為」になったのだ。