名将が語る、人・組織・ルールetc.本質を捉える「考え方」とは、どういうものだろうか。 落合博満氏の新刊『決断=実行』の刊行を記念して、特別に本書の中身を一部公開する。(まとめ/編集部)

落合博満『決断=実行』特別公開<br />「『負けたくない』というプライドがもたらした優勝」落合博満著『決断=実行』特別公開 ※写真はイメージです

『負けたくない』というプライドがもたらした優勝

 2010年は4年ぶりにセ・リーグで優勝を果たしたものの、日本シリーズは千葉ロッテに2勝4敗1引き分けで敗れ、セ・リーグで優勝してクライマックス・シリーズを勝ち抜き、さらに日本一になるという目標は持ち越しとなった。
 そこで、11年もリーグ優勝した上での日本一を目指すわけだが、中日にはセ・リーグを連覇した経験がなかったため、この年に優勝すれば、球団史上初の連覇になることも大きなモチベーションになっていた。

 春季キャンプから万全の準備をしていたが、3月11日に発生した東日本大震災によって開幕日が3月25日から4月12日にずれ込み、それに従って日程にも変更があった。中日は例年通りのスロースタートとなり、4月19日から神宮球場に乗り込んだ東京ヤクルトとの3連戦に3連敗。一方の東京ヤクルトはここから勢いづき、4月に引き分けを挟んで9連勝すると、そのまま首位を走った。
 中日も5月29日に1日だけ首位に立ったが、6月にかけて3度の3連敗で沈み、8月2日にナゴヤドームで首位の東京ヤクルトに0対1で敗れると、このシーズン最大となる10ゲーム差をつけられてしまう。
ただ、東京ヤクルトを追いかけるのであれば、私には勝算があった。理由は次の3つだ。

 1つ目は、夏の暑さの中で、東京ヤクルトは屋外の神宮球場を本拠地にしている。ただでさえ選手たちの体力が低下している中で、優勝を争うという緊張感が加わる。前半のような勢いを維持するのは難しいと考えられた。
 2つ目は、東京ヤクルトとは反対に、中日は涼しいナゴヤドームが本拠地であり、しかも、私に鍛え抜かれた選手たちは夏場から本領を発揮する。優勝争いも毎年のように経験しており、シーズン終盤の戦い方が身についている。
 そして、3つ目は日程の変更、また5月に地方開催だった2連戦が雨で中止になっていたため、9月以降にナゴヤドームで東京ヤクルトとの直接対決を9試合残していたこと。9ゲーム離されていても、その直接対決に全勝すれば追いつけるという数字上のマジックが、選手たちに希望を抱かせていた。

暑さが増してくると、2位の阪神と3位の広島が失速し始め、4位の中日と5位の巨人が上がっていく。東京ヤクルトは9月6日の横浜戦から9連勝するのだが、それでも2位の中日とは6ゲーム差に詰まっていたから気持ち悪かっただろう。

 そうして、9月22日からナゴヤドームでの4連戦は、4.5ゲーム差で迎えることになる。覚えている方もいると思うが、第1戦が開始される前、球団フロントは、このシーズン限りでの私の退任と、髙木守道さんが新監督に就くことを発表した。
 はじめは、この記者会見に私も同席を求められたが、シーズンの優勝を左右する戦いが始まる前に、翌年の話をするのはおかしいだろうと拒否した。
 決して感情的になったのではない。過去にも、退任が内定した監督が、シーズン中に記者会見をすることはあった。すると、チームはそこから苦しい戦いを強いられてしまうものだ。選手の心情を想像すれば、シーズン後にはユニフォームを脱ぐ人間のために一生懸命戦おうとは思えない。だからこそ、監督の去就はすべての戦いを終えた後で明らかにすべきだと考えている。

 また、私には現役時代の経験も含めて、プロ野球人としての信念がある。長いペナントレースでは、勝つこともあれば負けることもある。その勝負事を最後に左右するものは何かと問われれば、「諦めた者が負け、諦めさせた者が勝ち残る」ということだと思っている。
 だからこそ、長い戦いの中で他のチームに「中日には勝てないよ」と思わせれば、私たちの勝ちになる。反対に、他球団に何ゲーム離されようが、マジックナンバーが出ようが、自分たちが諦めた時点で勝負は決着してしまうのだ。
 そう考えると、優勝が決まる前に、翌年を見据えた選手起用を始めたり、監督が退任会見をすることは、何より毎日のように応援してくれるファン、球場に足を運んでくれる観客に対する一番の裏切り行為なのだと思う。
 この年も優勝するつもりで指揮を執っていたし、周りが何と言おうと私は諦めなかった。果たして、22日から中日が3連勝し、ゲーム差は1.5に。もう東京ヤクルトは、首位にいるという気分ではなかっただろう。25日は敗れて2.5ゲーム差となったが、東京ヤクルトとは、まだナゴヤドームで5試合残っている。
 結果的には、10月5日にゲーム差はなくなり、翌6日に中日が広島に勝ち、東京ヤクルトが阪神に敗れると、中日が首位を奪う。そして、中日が0.5ゲームのリードで迎えた10月10日からの4連戦に3連勝した時点でマジック4が点灯し、13日は吉見一起が3安打完封勝利でマジック2となる。
 14日からの巨人3連戦には3連敗してしまったが、その間に東京ヤクルトも1敗してマジックは1となり、18日に横浜と3対3で引き分け、球団史上初の連覇を達成することができた。

 監督としての私は、メディアに口を開かないことなどで批判されることが多かったが、球団フロントの一方的な退任発表には疑問を感じたファンも多かったようで、「絶対に勝ってほしい」という声援が大きな追い風になったことは確かだ。
 また、その退任発表が選手たちの闘志に火を点けたという論調もあったか。確かに、退任発表の直後に森繁和ヘッドコーチが選手を集め、気持ちがひとつになるような話をしてくれたということは耳にした。
 このように、連覇を達成できた要因はいくつかあると思うのだが、私が考える一番の理由は、監督と選手の信頼関係とか、監督を男にしようとする選手の意地といった浪花節的なものではない。本当に練習を積んできた選手が、自分たちほど練習をしていない選手には負けたくないというプライドだったのだと感じている。

 私が指揮した8年間、中日が春季キャンプで消化する練習量が、12球団で圧倒的に多かったことはご存じの方も多いだろう。それに加え、ペナントレース中には一日の休日も与えなかった。
 チームによっては、本拠地で金曜日から3連戦を戦い、また火曜日から3連戦がある時の月曜日は、チーム状態によって休養日にしたり、ベテランは休ませ、指名した若手だけの練習を行なったりする。

 だが、私は選手たちに「年俸の高いヤツが練習しなくてどうする。下手クソが練習しなければ上手くならないだろう」と言い続けた。
 実績のあるベテランを特別扱いせず、成長途上の若手は徹底的に鍛えた。そんな私を恨む選手はいても、ありがたいと思う選手はひとりもいなかっただろう。だが、私は常勝チームを作ってほしいというオーナーの命を受けて契約しており、どんな手段を用いても、それで誰に嫌われようとも、結果を残すことが使命なのだ。
 ひとりの野球人としては、この時の選手が何年か先にユニフォームを脱いだり、指導者になった時に「キツかったけれど、いい経験をした」と思ってくれれば本望だった。
 私が監督として中日というチームに残したものがあるとすれば、そうした信念を持って選手に接したことだろう。そして、その厳しさを8年間にわたって経験した選手が、自分の思いに忠実にプレーしてくれたことで、4回の優勝と1回の日本一を達成できたのだ。そのことは、8年間に在籍したすべての選手に感謝している。
 監督という仕事を通して私が痛感しているのは、自分自身の仕事は何かを常に忘れず、求められた役割を自分なりに全うすれば、周囲の誰もが何も余計なことは言わなくなるということだ。
 8年間の仕事を振り返って、私自身は「4回しか優勝をさせてやれなかった監督」だと受け止めているが、世間からは「4回も優勝させた監督」と言ってもらえる。また、チームを揺るがすような、組織のピラミッドを崩壊させるような不協和音も出なかった。

 余談になるが、10年のシーズンに、私は荒木雅博と井端弘和の二遊間をそっくり入れ替えた。この理由については拙著に書いたり、講演などで話す機会もあった。その中で、将来的には荒木をセカンドに戻すつもりだったと明かしたが、12年はファーストを森野将彦、セカンドを荒木、サードを井端と考えていた。
 ショートについては、守るだけなら岩﨑達郎や堂上直倫で十分。攻撃面を考え、他球団でフリーエージェント宣言した選手に声をかけるか、新人を含めて競争させるかとイメージしていたところだった。この内野陣の中なら、いいショートが育ったかもしれない。
 どんなに時代が移り変わり、若者たちの気質やライフスタイルが変化しても、スポーツ選手が思うのは「上手くなりたい。活躍したい」ということ。ビジネスマンなら「いい仕事をしたい」ということしかない。
 ならば、監督の役割とは、そんな選手を鍛え上げてチームを強化することだ。そして、監督の仕事ぶりがどうであったかというのは、鍛えられた選手たちが答えを出してくれるものである。