2万人が集まったというベートーヴェンの葬儀。それは、若き作曲家たちが創意工夫し発展させる「ロマン派」の船出でもありました。長距離鉄道の発展により、モーツァルトのように何日もかけて馬車で移動する必要もなくなり、マスコミも発展して音楽批評が誕生するなど、音楽家を取り巻く環境にも変化が生まれていきます。大きな歴史のうねりは音楽の世界にも押し寄せていたのです。書籍『クラシック音楽全史 ビジネスに効く世界の教養』から、ロマン派の夜明けについて一部ご紹介していきます。

 1827年3月26日、ベートーヴェンはウィーンで56年の生涯に幕を閉じました。

2万人以上集まったというベートーヴェンの葬儀<br />この偉大な先人に挑戦し発展させ「ロマン派」が花開く1827年3月29日に執り行われたベートーヴェンの葬儀の様子

 その3日後に執り行われた葬儀では、遺体が4頭立ての霊柩馬車に移されると、その後に参列者を乗せた200台の馬車が続き、ヴェーリング墓地まで、集まった人の数は沿道の人々を合わせると2万人に上ったといいます(※1)。参列者の中には、翌年ベートーヴェンを追いかけるように亡くなったシューベルトもいました。

 ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンというウィーンでつくられた「古典派」の大きな波が、次の時代へ交わり、若き作曲家たちにより新たな船出が始まりました。シューベルト、シューマン、リスト、ワーグナー、スメタナ、ブラームス、チャイコフスキー、ドヴォルザーク、マーラーらが登場する1900年頃までを「ロマン派」と呼びます。

 この頃は、コンサートに出かけ、みずからも演奏を楽しむ市民階級のアマチュア愛好家が増え、音楽が王侯貴族だけのものではなく、急速に市民に広がっていった時代です。

 1839年にはドイツで初めての長距離鉄道も開通し、馬車で数日かかった場所へも数時間で出かけることが可能になったおかげで、演奏家の活躍の場が広がりました。ピアノの超絶技巧で一世を風靡したリストはヨーロッパ中を駆け巡り、多くの人を魅了しました。連作交響詩『わが祖国』の第2曲「モルダウ」で有名なスメタナは、プラハでリストのピアノに接し、音楽の道に進むことを決めたと言われています。

 そして、マスコミも発展しました。当時を代表する文学者E.T.A.ホフマン(1776~1822年)はライプツィヒの「一般音楽新聞」で、演奏会批評や楽譜の紹介を行い、これをきっかけに音楽批評が確立されていきます。また文才にも恵まれていたシューマンは、『音楽新報』(月刊)を創刊し(現在も刊行されています!)、音楽ジャーナリストとしても手腕を発揮しました。シューマンの筆によって、ブラームスやショパンが世に出ることになります。

 シューマンが書いた評は、『音楽と音楽家(※2)』という本で読むことができます。ロマン派を代表する作曲家であり、文学青年だったシューマンの見事な文章から、まだ聴いたことがない音楽でもまさに聴こえてくるようです。

 こうして、少しずつ音楽家を取り巻く環境は変わっていきました。

 王侯貴族に雇われた音楽家時代から、誰にも気を遣うことなく自分の作品を世に出せる時代が到来したのです。作曲家たちは様々な手法で、自分たちの感情を音にしていきます。当時、交響曲はベートーヴェンで最高峰に達したと考える音楽家も多く存在しました。

 そんななかで、偉大な先人から受け継いだものをさらに発展させるべく、ベルリオーズは各楽章に標題をつけ、その標題に沿って音楽が展開していく「標題音楽」という概念に基づいて曲をつくりました。そして、ベルリオーズの影響を受けたリストは、「詩的なものと音楽的なものの結合」として「交響詩」を、ワーグナーは音楽や美術、文学、舞踊を総合した「楽劇」を生み出しました。

 作曲家の構想が、これまでの楽器の機能では到底表現できなくなり、この時代は楽器の種類も拡大していきます。ほかに、民族楽器や新しく発明された楽器も使われるようになりました。その結果、どんどんオーケストラの編成も大きくなっていきます。