1998年から日用品メーカーのエステーを率いて「消臭ポット」や「消臭力」、「脱臭炭」、「米唐番」などのヒット商品を連発してきた鈴木喬取締役会議長兼代表執行役会長は、『ファイナンス思考 日本を蝕む病と、再生の戦略論』著者の朝倉祐介さんがかねてから面談を切望していた人物。ついに今回の対談でその夢が実現し、鈴木会長が貫いてきたリーダーとしての鉄則についてうかがいました。(構成:大西洋平、撮影:野中麻実子)

ゴーン改革は俺のマネじゃないか!

エステー鈴木会長はなぜ退屈なサラリーマン時代20年を経て苛烈リストラを断行できたのか?鈴木喬(すずき・たかし)さん
エステー取締役会議長兼代表執行役会長
1935年生まれ。59年一橋大学商学部卒業後、日本生命入社。85年エステー出向。98年エステー社長就任。「消臭ポット」「消臭力」「脱臭炭」などヒットを連発。2005年創業以来最高の純利益18億円を達成。07年社長を退任し会長に就任するも、09年に社長復帰。2013年より現任。

鈴木喬さん(以下、鈴木) かねてから僕は、朝倉さんのことを不思議な人がいるものだ、会ってみたいなと思っていたんです。身長が伸びすぎて競馬の騎手になるのを断念なさった後、北海道の牧場で働いていたかと思えば、東大の法学部に入ったり、ミクシィの社長を務めていたかと思えば、米国の大学の先生になったりと、まるで牛若丸のような立ち回りですから。ご著書にしても、ヘリクツを書いていないから、本当に読みやすくて面白かったですよ。

朝倉祐介さん(以下、朝倉) ありがとうございます。鈴木会長は2010年に「カンブリア宮殿」というテレビ番組に出演なさっていましたよね。当時、私は零細スタートアップを経営しておりまして、その番組を通じて鈴木会長の経営に対する考え方を知り、とても勉強になりました。その後ミクシィに入って、「どうにかしてこの会社を建て直したい」と思っていた頃に、ご著書『社長は少しバカがいい。乱世を生き抜くリーダーの鉄則』も拝読しました。これにも感銘を受け、非常に勇気づけられたものです。以来、チャンスがあればぜひお目にかかりたいと思っていました。

鈴木 僕ね、朝倉さんのプロフィールを見て、もっと年配の人だと思い込んでいたんです。普通なら、これだけのキャリアをこなすには30〜40年はかかるでしょう。年齢が36歳となっていて、「明治36年生まれの間違いじゃないか?」と目を疑いましたよ(笑)。

朝倉 いやいや(笑)。それはさておき、著書にも書かれていたように、鈴木会長は社長就任直後にかなり大がかりな社内改革を敢行なさっていますが、本日は当時のことについていろいろ話をうかがえればと思っています。

鈴木 僕は63歳で社長になったわけですが、途端に困っちゃいましたよね。何しろ毎日のように株価が下がっていって、バブル期には7500円の最高値をつけていたのに、僕が就任した日には360円台になっていましたから。その前年の1997年には山一證券が破たんし、1998年には北海道拓殖銀行に長期信用銀行までコケて、日本の金融がパニックに陥っていました。私も金融機関(日本生命保険)に勤めていたことがあって、ああいった大手が潰れることはないと思い込んでいただけに、相当なショックを受けたものです。ウチの会社なんて、もっと容易く吹っ飛んでしまう状況でした。

朝倉 そこで、社長に就任されて早々に不良債権の売却などを進めてBS(バランスシート=貸借対照表)の健全化を図るとともに、約860もあった商品ラインナップを削減して在庫も処分し、年間60も出していた新商品を1つに絞り込んだそうですね。

鈴木 このところ、ゴーンさんのことが連日報道されていますが、「なんだ、彼がやった改革なんて、すべて僕のマネじゃないか。ビジネス特許でも取っておけば、かなりふんだくれたのに!」と思いましたよ(笑)。

エステーはいかにしてPL脳から脱したのか

朝倉 抜本的な改革を進めていくうえでは、社内の抵抗も相当なものだったようですね。

鈴木 当時の幹部連中に味方は皆無で、僕が何を提案しても反対されました。彼らがやってきたことを否定する内容の提案ですから、当然ですけど。正面からぶつかってもラチが明かないので、「キミは疲れているみたいだから、家でしばらく休養してくれ」と一人ずつ肩を叩いて回りました。約860の商品ラインナップにしても、あんなのはウソっぱちで、実際に市場で流通していたのはその3分の1もなかったはずです。残りは不良在庫として倉庫でホコリをかぶっていました。在庫が増えればBSを傷づけるだけですが、それを処分して実損を出せば、PL(損益計算書)が痛んでしまう。だから、在庫がどんどん増えていく、という悪循環に陥っていました。だから、「不良在庫はすべて捨てろ!」と大号令を発したわけです。

朝倉 不良在庫の処分に踏み切れないのは、まさにPL脳に支配されていたからですね。

鈴木 あくまでPLは年度決算で、極端な話、毎年の利益が増えたり減ったりしたところで大した問題ではありません。重要なのはBSであって、こちらが健全であれば、多少のことでは会社が潰れるようなハメに陥りません。

エステー鈴木会長はなぜ退屈なサラリーマン時代20年を経て苛烈リストラを断行できたのか?朝倉祐介さん
シニフィアン株式会社共同代表
競馬騎手養成学校、競走馬の育成業務を経て東京大学法学部を卒業後、マッキンゼー・アンド・カンパニーに勤務。東京大学在学中に設立したネイキッドテクノロジーに復帰、代表に就任。ミクシィへの売却に伴い同社に入社後、代表取締役社長兼CEOに就任。業績の回復を機に退任後、スタンフォード大学客員研究員等を経て、政策研究大学院大学客員研究員。ラクスル株式会社社外取締役。株式会社セプテーニ・ホールディングス社外取締役。2017年、シニフィアン株式会社を設立、現任。著書に、新時代のしなやかな経営哲学を説いた『論語と算盤と私』(ダイヤモンド社)など。

朝倉 ただ、バブルの頃はどの経営者もイケイケになっていたでしょうし、はじけた後も改革を先送りする傾向が強かったと思います。どうして鈴木会長は、ほかの経営者たちと違う発想ができたのでしょうか?

鈴木 僕としては、ほかの人たちとは違うことをやろうとか、少しも意識したことがありません。単に、僕が偏屈だっただけでしょう。日本生命に在籍していた頃も、上役などから「オマエはこの会社に合わないし、そもそもサラリーマンに向いていない」とよく言われていたものです。僕が在籍していたときに日本生命はベンチャー投資でエステーに出資し、今でも機関投資家では最大の株主(持ち株比率6%)となっています。1985年に僕は大株主の日本生命から出向するかたちでエステーに入りました。そして、株式市場に新規上場するにあたって、「社外の人間がCFO(最高財務責任者)を務めているのはいかがなものか?」という話になって、正式にエステーに入社したわけです。バブル全盛の頃は常務に就いていましたが、「いつかガラ(崩壊)が来る」と、当時の経営方針にことごとく反対していました。案の定、バブルが崩壊したのですが、「すぐに上向くはずだ」と当時の日本人は誰もが信じていて、強烈な危機感を抱いていたのは社内で僕だけでした。

朝倉 その結果、さらに状況は悪化して、鈴木会長が社長として陣頭指揮に立つことになったわけですね。就任演説では「聖域なき改革をやる!」と宣言し、過去の全否定に踏み切ったと著書にも書かれていました。

鈴木 逆張りをやっていたわけではなく、天邪鬼(あまのじゃく)だっただけですよ。僕が小学校の5年生、10歳のときに日本が戦争に負けて、疎開先から焼け野原になった東京に戻ってきました。小学校に行くと、古い教科書に書いていることをすべて墨汁で塗りつぶせと命じられました。それまで教わってきたことは全部間違っていたというのですから、ふざけた話ですよ。偉そうに軍国主義を説いてきた大人たちが手のひらを返すのが許せませんでした。新しい教科書で教わることにも騙されちゃいけないと思いました。そもそも、中学校も焼け落ちていましたから、その後もまともな学校教育を受けていません。だから、世の中の常識なんて僕には関係ありませんし、あまり道徳心も持ち合わせていません(笑)

サラリーマンだった20年間はのんびりしていた

朝倉 著書を拝見していても、「社長は独裁でなければならない」といった具合に、ご自身の考えを重視なさっていて、周囲の意見に振り回されることがなさそうです。経営の教科書には絶対に出てこないような経験則がいっぱい書いてあって、非常に豪快で型にはまっていないお考えの持ち主だと思いました。とはいえ、エステーに入社される以前、30年近くも勤めてこられた日本生命は典型的な日本の会社というイメージがあります。エステーの経営に携わっていくうえで、日生時代の経験は活かされましたか?

エステー鈴木会長はなぜ退屈なサラリーマン時代20年を経て苛烈リストラを断行できたのか?不純な動機?で日本生命に就職したという鈴木さん

鈴木 日本生命はものすごく人を大事にしてくれる会社でしたよ。ただ、実を言うと、僕は不純な動機で入社しましてね。当時の保険会社は戦時体制下で平和産業(軍需産業の対義語で戦争に無関係な産業)に指定されていて、労働時間も短く、しかも、若い男性はほとんどいません。とにかく競争しなくてすんで気楽だということで、日本生命を選んだわけです。

朝倉 とはいえ、法人営業部を立ち上げるなど、みずから苦労を買って出るような仕事をなさっていますし、年間契約高1兆円以上のトップセールスも達成されていますよね。

鈴木 まあ、僕は新しいことに取り組むのが好きでしたからね。ただ、入社してから20年間ぐらいはのんびりしていましたよ。

朝倉 えーっ、20年間もですか(笑)。

鈴木 上司とも、しょっちゅう衝突していました。僕が係長だったとき、直属の上司の課長を激しく罵倒してやったんですよ。今時じゃあ許されないでしょうけど、あまりにも頭にきましたから。そして、そのまま帰宅してしばらく家族を連れて旅行に出ちゃったら、社内が大騒ぎになったらしいです。「アイツはすっかり思い詰め、世をはかなんで無理心中でもしでかそうとしているのではないか?」と思ったみたいですね。僕にとって上司とぶつかることは日常茶飯事で、ちっとも気にしておらず、数日経ってから平気な顔で出社したら、みんなが血相を変えていました。僕を部下に持った上司はたまったものじゃなかったでしょうね。

朝倉 著書を読んで想像していた以上に、まさしく型破りだったわけですね。

鈴木 当時の保険会社は大蔵省(現財務省)による護送船団方式の下、保険料率をはじめとするすべてが横並びで、なおかつ右肩上がりの時代ですから、会社の規模が大きいほど効率的に儲かるわけで、個人であれこれやらなくてもいいという世界でしたからね。

朝倉 しかし、その中で鈴木会長は法人営業を開拓なさったわけですよね。

鈴木 確かに最後の数年間は、社員が1万人以上の会社をリストアップして一気呵成に攻めましたね。「オマエなんか、もう2度と来るな!」と追い返されても、平気な顔をしてシュシュッとまた訪問するわけですよ。保険を売ることができれば、どんな分野の営業もこなせると言われますが、それは本当だと思いましたね。(後編へつづく