古典を読む生ぬるい教養ではなく、リーダーが本気で哲学を学ぶ理由とは?(写真はイメージです) Photo:PIXTA

エグゼクティブがひそかに
受講する「哲学合宿」とは

 ビジネスや教育の現場では「受け手の立場に立ったコミュニケーションの重要性」が花盛り。いわく、「受け手が理解できることがすべて」であり、どんな素晴らしい知見や洞察も、受け手がわからなければ、存在しないのと同じだ、とのこと。しごくもっともである。

 しかしながら、近年、それを強調しすぎるあまり、受け手が「お客さん」になっている。「わかりやすい」「つまり○○」「5分でわかる」「(わかったような気にさせる)ビジュアル」ばかりに価値が置かれ、複雑なものを複雑なまま理解すること、一義的には決められない意味の多様性と深さがあるもの、あるいは、分解したり断面で切ったりしてしまうと全体像がわからなくなるものなどのように、受け手が積極的かつ能動的に情報を獲得し、頭の中で概念を再構成する必要のある「めんどくさい」ものが回避されすぎていると漠然と思っていた。

 そんな中、先日、数日間にわたるエグゼクティブ向けの「古典・哲学合宿」のようなものに参加してきた。プラトン、アリストテレス、孔子、カント、デカルト、ハイゼンベルクなどの古典をアカデミズムの泰斗のもと、10人くらいでひたすら(一応日本語訳で)読む講座である。

 方法はきわめてシンプルである。

1)その時代、その場所に没入する

 その時代のその書き手の立場になりきる。安易に現代社会や自分の仕事などの例に引きつけない。書き手の立場や意見を少なくともいったん全面的に肯定する。

2)バカ正直に一行一行について考えながら読む

 簡単に要約しない。そのテキストにある文章の一行一行にどんな意図が込められているか、ひとつもおろそかにせず、吟味しながら、できるだけ深く探ってみる。

3)意味を発見したら参加者同士で共有する。その発見を相互に尊重する

 没入して考えた結果、書き手の意図のようなものを発見したら、発表して共有する。