哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第5章のダイジェスト版を公開します。


 本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。

 物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?

哲学的に考えると、子どもに「自由」はない。

子どもの「自由」を哲学する

 前回記事『人助けを「無理やりさせる」のは、“正義の行為”か?』の続きです。

 僕を挟んで唐突に始まった、副会長と庶務の言い合い。

 いや、生徒会室なら、正直見慣れた光景ではあるのだが、今は授業中。公の場だ。でも、ここで何か口を挟もうものなら、生徒会長として、この場の調停を求められてしまう(それもまた見慣れた光景だ)。まずはそれを回避しよう。僕は息を殺して背筋を伸ばし、無言で真っ直ぐ前を見て、この件に自分は無関係であるというアピールをする。

 が、その結果、先生と思いきり視線がぶつかってしまった。

「正義くんは、どう思うかな?」
 逆効果。むしろ、僕に任せてください的なアピールになってしまった。

「そうですね……」
 そのとき脳裏によぎったのは、「たしかに人助けを強制するってなんか違うなって思いますが、でも、助ける助けないは自由でまったく強制しないってのも問題ですよねー」といったどっちつかずの曖昧な答え。

 それを口に出して、なんとかこの場をしのごうかとも思ったが……、今までの記憶を思い返してみると、そう言って、しのげた試しがない。見慣れた光景だからこそわかる。お茶を濁す発言はそれこそ逆効果なのだ。ならば……。

「あの……自由主義は、子どもの自由についてはどう考えているのでしょうか?」
 ならば、一旦視点を変えてみる。もちろん当てずっぽうではなくて。たぶん、おそらくつながると思うんだけど。

「ほう!」
 先生は、とても感心した声を出した。

「なるほど、良い視点だ。たしかに自由主義は、人間の自由を尊重する立場であるが、子どももしくは未成年の行動については、ある程度制限するべきだと考えている。ただし、ここで制限すると言っているのは、あくまでも行動であって自由ではないことに注意してほしい」

 ん? 行動は制限するけど、自由は制限していない?
 どういうことだろう。同じことのように思えるのだが。