ラグビーワールドカップが目前に迫り、新国立競技場の建設案を巡るすったもんだも、すっかり過去のことになりました。もちろん、問題を蒸し返すのが目的ではなく、あれほど迷走を極める課題について、どのようなフレームワークで代替案を発想しうるのか、思考の体操をするためのお題として、実際に隈研吾さんの案に決定される4日前に考えてみたのが今回のケースです。企業が従来の事業領域やメンバーで新たな商品・サービスを生み出すSHIFTを実現するには、イノベーション、インターナルマーケティング、エクスターナルマーケティングという3つのコンポーネントが必要ですが、そのうちSHIFTの起点となるイノベーション(I)発想を読者に体感してもらうことを狙いとするものです(論文集『SHIFT:イノベーションの作法』からの一部紹介です)。

噴出している問題を
すべて手のひらに載せてみる

 ビジネスの面白さと難しさは、答えが無限に存在するところにある。このため、社会にインパクトを与えるSHIFTを実現したければ、「正しい答え」を探そうとするのは間違いである。まず、人々の持つ複雑に絡み合った既成概念──私の言うところの“バイアス”の構造を自分なりに視覚化して、与えられた時間内に、そのバイアスを破壊する方向性を強制的に見出すのだ。そんなバイアス破壊を軸に、SHIFTの起点となるイノベーション(I)発想のセオリーには、次の三つのプロトコルがある。

(1)バイアスを構造化(可視化)する。
(2)バイアスのパターンを壊す。
(3)強制発想する。

 今回は、このプロトコルに則ったSHIFT実現のアプローチを体感してもらうため、より実践的な思考実験を紹介しよう。

 お題は、2015年12月までもつれた「新国立競技場の建設問題」である。投資回収というビジネス的な側面を持ちつつ、多分に政治的な問題でもある。いずれの分野であれ、誰にも適切な解決策が見当たらない問題こそ、イノベーティブなSHIFTが必要だ。その点、格好の練習問題として取り上げたい。

 無論、すでに隈研吾氏のチームによる新デザインで決着したこの問題の顛末をあげつらい蒸し返したり否定する意図はまったくない。この解答は、隈氏らの新案が発表される4日前に行われたあるセミナーの壇上で生み出したものだ。すでに過去の課題ではあるが、読者の皆さんも、その時点のことと想定しながら、これから紹介する発想プロセスをたどってみてほしい

 最初に、2015年12月時点で判明していた課題を整理しておこう。

 そもそも新国立競技場は、2019年9月開幕のラグビーワールドカップ(W杯)日本大会、2020年8月の東京五輪・パラリンピックの主会場として建設されることが決まっていた。東京での五輪開催が正式決定した2013年9月より以前の2012年11月に、イラク出身の建築家ザハ・ハディド氏によるデザインがコンペで選定されていた。そのデザインの特徴はキールアーチと呼ばれる2本の弓状構造物にあり、開閉式の屋根によってあらゆる天候下でスポーツを含むさまざまなイベントに対応できる、マルチユース型の施設だった。

 問題の発端は、2015年初夏に入り建築コストが増大していると判明したことだ。当時、東日本大震災の復興需要が高まっていたこともあって建築関連コストが跳ね上がり、選定時の総工費見通し1300億円の倍近い2520億円に上ることが判明した。国民感情も悪化の一途をたどり、「お金をかけすぎ」「ヘルメット状の巨大な建造物ができると神宮外苑の景観を損なう」といった否定的な意見が高まった。ついには2015年7月、安倍首相よりザハ案を白紙撤回し、新たにコンペを実施することが正式表明されたのである。

 ご存じの通り、同年12月には隈氏と大成建設らのチーム案で再決定するのだが、それまで半年近くにわたって、この新国立競技場の建設問題は揉めに揉めた。さまざまな立場から、あらゆる角度の問題提起や意見が噴出した。出てきた問題をまずは、すべて手のひらに載せてみよう

 まずザハ案反対派は、この案は初期投資やメンテナンス費用がかかりすぎて将来回収できない、しかも景観を損ねる、と主張した。反対派の中には、オリジナルの建築コスト内で実現可能な自分のデザインを提案した建築家が何人もいた。

 またザハ案修正継続派は、ザハ案を中止すれば国際的な信用を失うばかりか、ラグビーW杯に間に合わなくなるので、全天候対応のマルチユース型施設にするための開閉式屋根を諦める、あるいは小型化するなどのデザイン変更でコストを削減してはどうか、と提案した。

 ザハ案賛成派もまた、一度コンペで決めた案を白紙撤回すれば、国際的な信用を損なうだけでなく、世界中の建築家が今後は日本のコンペに参加しなくなるおそれを考慮していた。同時に、もし撤回すればスケジュールが遅れることや、ザハ氏への補償金が発生することも懸念していた。また、全天候対応のマルチユース型を諦めれば、イベントなどによるフローの収益が低下する負の可能性も提示した。

重層的なトレードオフを
視覚化して構造を認識する

 問題の経緯を一通りなぞったところで、ここからイノベーション(I)発想をスタートさせる。まずバイアスを構造化するには、冒頭も述べた通り、噴出している意見のうち「どれが一番優れているか」を考えても意味はない。大事なのは、それらの意見がどのように発想されているか、背景にあるバイアスを探ることである。それには、前述のように文章で羅列してみても構造がわかりづらい。

 まず私は、指摘されている問題点はいずれも以下3点に集約できると考えた。

(1)総工費
(2)国民感情
(3)デザイン(ザハ設計の実現度、ザハらしさ)

「新国立競技場」建設案をお題として考える:問題の本質から「強制発想」するイノベーション発想のアプローチ図表1「新国立競技場にまつわる重層的トレードオフ」
拡大画像表示

 これらを単純に図式化したのが、図表1である。ザハ案通りに建設すれば総工費は2520億円かかり、国民感情は悪化する。反対に、「開閉式の屋根をやめる」「サイズを小さくする」などザハ案を縮小・修正すれば、デザイン上のザハらしさは損なわれるが総工費は抑えられ、国民感情を回復できそうだ。

 要するに、上記3点は重層的なトレードオフの関係にある。

 トレードオフの場合、極端な二つの選択肢か、その中庸を取るという原則三つの解決策しか存在しない。今回で言えば、「ザハ案通り建設する」か「建築コスト、国民感情を優先してザハ案を撤回する」、あるいはその中立点として「ザハ案を修正して、妥協点を探る」というアプローチしか生まれない。新国立競技場問題でも、その発想の範囲内で「どこに落としどころを見つけるか」という議論に終始した。バイアスブレークによる問題解決ができないまま、意思決定の問題にすり替えられたのである。その意思決定すら判断基準がないため議論は迷走を極めた。

 だが、重層的なトレードオフ関係にある3点の総取りはできない、という考え方こそ、新国立競技場にまつわるみんなの思い込み──バイアスにほかならない。提案された問題提起や意見の類は、すべてこのバイアスライン(図表1中の点線に向かって縮小させる方向)にあることがわかるだろう。

 バイアスを可視化できたら、次にやるべきはパターンの破壊である。3点をそれぞれいかに実現するかという具体策ではなく、従来の3点の関係(というみんなの思い込み)を打破するフレームワークから考える

「新国立競技場」建設案をお題として考える:問題の本質から「強制発想」するイノベーション発想のアプローチ図表2「新国立競技場問題のバイアスを壊す2案」
拡大画像表示

 まずは、図表2で示した解決策Aのように「国民感情」を反転させてみた。「総工費」「国民感情」「デザイン(ザハらしさ)」の関係は次のようになる。

【解決策A】
・総工費:MAX2520億円
・国民感情:良好
・デザイン(ザハらしさ):100%

 この3点が揃ったのを見た瞬間、きっと誰もが「不可能だ」「それができれば苦労しない」と却下に走るだろう。「総工費2520億円」と「良好な国民感情」はトレードオフの関係にあるというバイアスに縛られているからだ。しかし、そういう時こそイノベーションが生まれる瞬間である。本当に成立しないのかは後で熟考する。

 次に、同図表の解決策Bを見てほしい。今度は「デザイン」を反転させた。

【解決策B】
・総工費:MIN1300億円
・国民感情:良好
・デザイン(ザハらしさ):100%

 これもまた「総工費が1300億円ではザハ氏のデザインを実現できない」というバイアスを破壊している。A、Bどちらの解決策であれ、これを実現する方法を思い付けば、それで問題は解決する。