1997年、都市銀行の一角を占めた北海道拓殖銀行(拓銀)が経営破綻したことをご記憶の方も多いだろう。

 1900年に北海道開拓を目的とする国策銀行としてスタートし、55年には都市銀行に転換した大手銀行の破綻劇は、当時、大きな波紋を呼び、金融市場をパニックに陥れた。

 拓銀は道内を地盤に、全盛期は首都圏や関西、ニューヨーク、ロンドン、香港などにも支店を置き、拡大路線を進んだ。

 地元では「たくぎん」、道外では「ほくたく」の愛称で呼ばれ、イメージキャラクター「みんなのたあ坊」とともに親しまれた。

 ところが、バブル期の過剰な貸し付けが不良債権化し、90年代半ばに経営危機に。

 すると、「大手銀行は1行たりとも潰さない」という大蔵省の公約は反故にされ、97年11月17日、都銀初の経営破綻に陥った。
 そして、金融市場がパニックに陥ったのだ。

 拓銀は北洋銀行に営業譲渡され、98年の歴史に幕を閉じた。

 拓銀の『最後の頭取』となった河谷禎昌は、10年にわたる法廷闘争の末、最高裁で有罪が確定。先ごろ話題となった日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告と同じ「特別背任罪」で実刑判決を受け、70歳代半ばにして、1年7ヵ月を刑務所で過ごした。

 大手銀行の経営トップで収監された例は他にはないのだが、この後日談を知るものは、金融関係者にも少ない。

 バブル経済の生成と崩壊を実体験した生き証人は、いま84歳。
 後世に伝えるバブルの教訓を『最後の頭取』が、すべて明かす。

【北海道拓殖銀行「最後の頭取」84歳】<br />私が考える5人の<br />“拓銀破綻のA級戦犯”とは?<br />(パート1)Photo: Adobe Stock

 拓銀破綻から20年が過ぎ、多くの関係者が鬼籍に入りました。

 この「事件」がやっと「歴史」になるなかで、次第に私なりの考えを記しておきたいと考えるようになりました。
 なぜ拓銀は破綻してしまったのか。その責任は一体、誰にあったのか。

 第二次大戦後、連合国軍は大戦における日本の指導者たちを「戦争犯罪人」として裁きました。
 極東国際軍事裁判、いわゆる東京裁判です。
 その公平性を巡っては、今も「勝者の裁き」との批判もありますが、国民に「あの戦争とは何だったのか」を納得してもらうために必要なプロセスだったと思います。

 これと同じように、「拓銀破綻とは何だったのか」を多くの人に知ってもらいたい。
 仮に、私が東京裁判の裁判長のような立場になれるのならば、“拓銀破綻のA級戦犯”として挙げるのは、次の5人になります。

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 1人目は、山内宏元会長(故人・取締役の就任時期は、1977年12月〜95年6月)です。
 彼は“不作為の罪”です。
 頭取時代、不良債権の膨張を防ぐ手立てを何もしなかった。

 公判以降は、まったく連絡も取り合っていませんでした。
 私が仮釈放された約4ヵ月後、亡くなったことを新聞記事で知りました。
 彼は私と同じく懲役2年6ヵ月の有罪判決を受けながら、健康状態が考慮されて刑の執行停止になっていました。

 彼の死を知った時、私は「死の床についているよりは、刑務所暮らしのほうが天国だった」と思いました。

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 2人目は、佐藤安彦元副頭取(1981年6月〜93年6月)です。
 彼は前述した通り、のちに巨額の不良債権を生むインキュベーター路線の80年代の推進役でした。

 私から見れば、自分の意見に沿うものだけを優遇し、反抗するものを左遷する不公正な人事を行ったと思います。
 その結果、行内では物言えぬ空気が広がり、融資のチェック機能の形骸化を招きました。

 佐藤氏は若い頃は部下の扱い方にも情があって、侠気があるよい上司でした。
 ところが、昇格するにつれて性格が変わっていきました。

 組織には出世すればするほど変わる人と、出世しても変わらない人がいます。
 佐藤氏は前者の典型でした。
 のちには顔つきまで変わってしまい、人間というのはこんなに変わるものか、怖いものだと感じたほどでした。

【次回に続く】