哲学史2500年の結論! ソクラテス、ベンサム、ニーチェ、ロールズ、フーコーetc。人類誕生から続く「正義」を巡る論争の決着とは? 哲学家、飲茶の最新刊『正義の教室 善く生きるための哲学入門』の第9章のダイジェスト版を公開します。


 本書の舞台は、いじめによる生徒の自殺をきっかけに、学校中に監視カメラを設置することになった私立高校。平穏な日々が訪れた一方で、「プライバシーの侵害では」と撤廃を求める声があがり、生徒会長の「正義(まさよし)」は、「正義とは何か?」について考え始めます……。

 物語には、「平等」「自由」そして「宗教」という、異なる正義を持つ3人の女子高生(生徒会メンバー)が登場。交錯する「正義」。ゆずれない信念。トラウマとの闘い。個性豊かな彼女たちとのかけ合いをとおして、正義(まさよし)が最後に導き出す答えとは!?

監視が「人の行動を変える」メカニズムPhoto: Adobe Stock

「他者の視線」の恐ろしさ

前回記事『刑務所を「哲学」すると、正義の輪郭が見えてくる』の続きです。

「刑務所というシステムの要点を整理してみよう。それは次のふたつだ」

(1)「異常者(囚人)」を保護して「正常者(一般人)」に矯正する。
(2)そのためには、囚人を一定の規律に従わせ、その行動を監視する。

「さて、ここで特徴的なのは、監視という矯正方法だ。刑務所はけっして体罰などで囚人を痛めつけて、正常な人間に矯正しようとするわけではない。そうではなく、囚人を規則正しく起こし、食べさせ、働かせ、寝かせ、その日常を看守が監視することで正常な人間に矯正しようとする。なぜ監視が矯正になるのか?」

「たとえば、宿題をやらない子どもを思い浮かべてほしい。その子を矯正する方法として、手っ取り早く『殴る』というやり方があるだろう。だが、その方法では真の矯正は実現できない。なぜなら、仮にその子が宿題をやるようになったとしても、それはあくまでも痛みとの取引による打算的な選択にすぎないからだ。その証拠に、もし痛めつけられない環境に戻せば、きっと彼はまたサボるだろう」

「だから、彼を真に矯正したければ、こうすればいい。まず最初に、『宿題はみんな当たり前にやっている。それができないやつは、おかしな人間だ』という特定の価値観を信じ込ませる。そして、そう思い込ませたあと、後ろからずっと『見て』いればいいのだ」

「そうして、もし彼が『うわ、ボク、人に見られてる。おかしな人間だと思われたくない』という感覚を持ったとしたら、しめたもの。しばらく定期的に見ていれば、そのうち彼は誰も見ていないときでも『他者の視線』を意識するようになり、自分を律して自ら宿題をやるようになるだろう」

 なるほど、そうなればひとりで勝手にやるようになるのだから、たしかに完璧な矯正方法だと言える。でも、それって、本当に善いことなのだろうか。なんだか都合よく、その子の思考を操作しているようにしか思えない。もっとも、その子自身は「ちゃんと自分で考えて行動してるよ」と言うのかもしれないが。

「さて、今のたとえ話から、刑務所における監視というシステムが、いかに人間を矯正するのに効果的であるかが、わかってもらえたかと思う。が、しかし、よくよく考えてみれば、この話は刑務所だけにとどまらない。他者の視線を気にさせて自分を律するように仕向ける―このやり口は、社会のいたるところにある。いや、社会全体がそうだと言ってもよいだろう。そう、我々が住む社会(コップ)は、実は『監視による矯正』という、刑務所と同じ構造で出来上がっているのである。そのことを指して、フーコーはこう主張する」

「『私たちは、ベンサムが設計した刑務所、パノプティコンの中で生きている』と」
―パノプティコン!?

 思わぬ言葉に僕は凍りつく。それは隣の倫理と千幸も同様だった。僕たちは強張った表情で互いの顔を見合わせる。