刊行から丸6年を経てついに国内200万部を突破した『嫌われる勇気』。ビジネス書のベストセラー年間ランキングで史上初の6年連続トップ5入り(2014年〜2019年、トーハン調べ)を果たし、さらには海外20数カ国で翻訳され世界累計部数は475万部を超える。
アドラー心理学の入門書である本書が、これほどまで現代の人々に受け入れられたのはなぜか。大きな要因の一つに、「哲人」と「青年」のスリリングな対話の魅力があげられよう。アドラー心理学に精通する哲人と、全読者の代表とも言える悩める青年の対話は、そのまま共著者である岸見一郎氏(哲人)と古賀史健氏(青年)の関係に当てはまる。両氏は、このたび200万部突破を記念して全国9ヶ所で講演会を行うことになったが、それはまさにリアル哲人とリアル青年のセッションと言える。
そこで改めて哲人と青年の対話を楽しみつつ、アドラー心理学の衝撃的な教えをじっくり考えて頂くため、これから数回にわたって『嫌われる勇気』の重要箇所を抜粋して特別公開していきたい。今回は、本の冒頭で青年が哲人を初めて訪ねるパートを掲載する。

世界はシンプルであり、
人生もまたシンプルである

かつて1000年の都と謳われた古都のはずれに、世界はどこまでもシンプルであり、人は今日からでも幸せになれる、と説く哲学者が住んでいた。納得のいかない青年は、哲学者のもとを訪ね、その真意を問いただそうとしていた。悩み多き彼の目には、世界は矛盾に満ちた混沌としか映らず、ましてや幸福などありえなかった。

青年 では、あらためて質問します。世界はどこまでもシンプルである、というのが先生のご持論なのですね?

哲人 ええ。世界は信じがたいほどにシンプルなところですし、人生もまた同じです。

青年 理想論としてではなく、現実の話として、そう主張されているのですか? つまり、わたしやあなたの人生に横たわる諸問題もまた、シンプルなものであると。

哲人 もちろんです。

青年 いいでしょう。議論に移る前に、今回の訪問についてお話しさせてください。まず、わたしがここを訪れた第一の理由は、先生と存分に、納得のいくまで議論を交わすことです。そして、できうることなら先生にご持論を撤回していただきたいと思っています。

哲人 ふふふ。

青年 というのも、風の噂に先生の評判を聞きましてね。なんでもこの地に一風変わった哲学者が住んでいて、看過しがたい理想論を唱えているらしい。曰く、人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれる、だのと。わたしにとっては、いずれも到底受け入れられない議論です。
 それで実際に自分の目で確かめて、少しでもおかしな点があればその誤りを正してさしあげよう、というわけです。……ご迷惑でしょうか?

哲人 いいえ、大いに歓迎します。わたし自身、あなたのような若者の声に耳を傾け、学びを多くしていきたいと願っていたところです。

青年 ありがとうございます。わたしは別に、先生を頭ごなしに否定しようとは思いません。まずは先生のご持論に乗っかった上で、その可能性から考えてみます。
 世界はシンプルであり、人生もまたシンプルである。もしもこのテーゼに幾ばくかの真理が含まれるとするなら、それは子どもにとっての生でしょう。子どもには、勤労や納税といった目に見える義務がありません。親や社会に守られながら、毎日を自由気ままに生きています。未来はどこまでも続いていて、自分にはなんでもできるように思える。醜い現実を見なくてすむよう、その目を覆い隠されている。
 なるほどたしかに、子どもの目に映る世界はシンプルな姿をしているのでしょう。
 しかし、大人になるにつれ、世界はその本性を現していきます。「お前はその程度の人間なのだ」という現実を嫌というほど見せつけられ、人生に待ち受けていたはずのあらゆる可能性が“不可能性”へと反転する。幸福なロマンティシズムの季節は終わり、残酷なリアリズムの時代がやってくるわけです。

哲人 なるほど、おもしろい。

青年 それだけではありません。大人になれば複雑な人間関係に絡まれ、多くの責任を押しつけられる。仕事、家庭、あるいは社会的な役割、すべてがそうです。無論、子どものころは理解できなかった差別や戦争、格差といった社会の諸問題も見えてくるし、無視できなくなります。違いますか?

哲人 そうでしょう。続けてください。

青年 さて、宗教が力を持っていた時代であれば、まだ救いもあったでしょう。神の教えこそが真理であり、世界であり、すべてだった。その教えに従ってさえいれば、考えるべき課題も少なかった。しかし宗教は力を失い、いまや神への信仰も形骸化しています。頼れるものがなにもないまま、誰もが不安に打ち震え、猜疑心に凝り固まっている。みんな自分のことだけを考えて生きている。それが現代の社会というものです。
 さあ先生、お答えください。あなたはこれだけの現実を前にしてもなお、世界はシンプルだとおっしゃるのですか?

哲人 わたしの答えは変わりません。世界はシンプルであり、人生もまたシンプルです。

青年 なぜです? 誰がどう見ても矛盾に満ちた混沌ではありませんか!

哲人 それは「世界」が複雑なのではなく、ひとえに「あなた」が世界を複雑なものとしているのです。

青年 わたしが?

哲人 人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。あなたが見ている世界は、わたしが見ている世界とは違うし、およそ誰とも共有しえない世界でしょう。

青年 どういうことです? 先生もわたしも同じ時代、同じこの国に生きて、同じものを見ているじゃありませんか。

哲人 そうですね、見たところあなたはお若いようですが、汲み上げたばかりの井戸水を飲んだことはありますか?

青年 井戸水? まあ、ずいぶん昔のことですが、田舎にある祖母の家が井戸を引いていました。夏の暑い日に祖母の家で飲む冷たい井戸の水は、大きな楽しみでしたよ。

哲人 ご存じかもしれませんが、井戸水の温度は年間を通してほぼ18度で一定しています。これは誰が測定しても同じ、客観の数字です。しかし、夏に飲む井戸水は冷たく感じるし、冬に飲むと温かく感じます。温度計では常に18度を保っているのに、夏と冬では感じ方が違うわけです。

青年 つまり、環境の変化によって錯覚してしまう。

哲人 いえ、錯覚ではありません。そのときの「あなた」にとっては、井戸水の冷たさも温かさも、動かしがたい事実なのです。主観的な世界に住んでいるとは、そういうことです。われわれは「どう見ているか」という主観がすべてであり、自分の主観から逃れることはできません。
 いま、あなたの目には世界が複雑怪奇な混沌として映っている。しかし、あなた自身が変われば、世界はシンプルな姿を取り戻します。問題は世界がどうであるかではなく、あなたがどうであるか、なのです。

青年 わたしがどうであるか?

哲人 そう。もしかするとあなたは、サングラス越しに世界を見ているのかもしれない。そこから見える世界が暗くなるのは当然です。だったら、暗い世界を嘆くのではなく、ただサングラスを外してしまえばいい。
 そこに映る世界は強烈にまぶしく、思わずまぶたを閉じてしまうかもしれません。再びサングラスがほしくなるかもしれません。それでもなお、サングラスを外すことができるか。世界を直視することができるか。あなたにその“勇気”があるか、です。

青年 勇気?

哲人 ええ、これは“勇気”の問題です。

青年 ……いや、まあいいでしょう。反論は山ほどありますが、どうやらそれはあと回しにしたほうがよさそうだ。確認ですが、先生は「人は変われる」とおっしゃるのですね? わたしが変われば、世界もシンプルな姿を取り戻す、と。

哲人 もちろん、人は変われます。のみならず、幸福になることもできます。

青年 いかなる人も、例外なく?

哲人 ひとりの例外もなく、いまこの瞬間から。

青年 ははっ、大きく出ましたね! おもしろいじゃありませんか、先生。いますぐ論破してさしあげますよ!

哲人 わたしは逃げも隠れもしません。ゆっくりと語り合っていきましょう。あなたの立場は「人は変われない」なのですね?

青年 変われません。現に、わたし自身が変われずに苦しんでいます。

哲人 しかし同時に、あなたは変わりたいとも願っている。

青年 もちろんです。もしも変われるのなら、この人生をやり直せるのなら、わたしは喜んで先生に跪きましょう。もっとも、先生がわたしに跪くことになるやもしれませんが。

哲人 いいでしょう。おもしろいものです。あなたの姿を見ていると、学生時代の自分を思い出します。真理を探して哲学者のもとを訪ね歩いていた、血気盛んな若者だったころの自分の姿を。

青年 ええ、そうです。わたしは真理を探し求めています。人生の真理を。

哲人 これまでわたしは弟子というものをとったことがなく、その必要を感じたこともありませんでした。しかし、ギリシア哲学の徒となって以来、そして「もうひとつの哲学」と出逢って以来、心のどこかであなたのような若者が訪ねてくるのをずっと待っていたような気がします。

青年 もうひとつの哲学? なんです、それは?

哲人 さあ、あちらの書斎にお入りなさい。長い夜になります。熱いコーヒーでも用意しましょう。

(続く)