『超訳 ニーチェの言葉』待望の第2弾が好評の白取春彦氏と、『媚びない人生』著者のジョン・キム氏との対談の後編をお届けします。「合理や常識とは何か」「ニーチェはアナーキストであった」「完全なる自由とは」など、今回も興味深いテーマが。今、2人が読者に伝えたいメッセージとは。(取材・構成/上阪徹 撮影/小原孝博)

合理や常識は、社会が多数決で決めたもの

打算や思惑のない言葉こそ、伝わる<br />【(『超訳ニーチェの言葉』)白取春彦×ジョン・キム】(後編)
白取春彦(しらとり・はるひこ)
青森市生まれ。ベルリン自由大学で哲学・宗教・文学を学ぶ。哲学と宗教に関する解説書の明快さには定評がある。
主な著書に『超訳 ニーチェの言葉』『超訳 ニーチェの言葉2』『頭がよくなる思考術』『生きるための哲学』(以上、ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『仏教「超」入門』(PHP文庫)ほか多数がある。

白取 最近、合理性とか効率性とか、そういう言葉を、よく耳にしますね。僕は、その合理性という言葉の、意味がよくわからないんですよ。何が合理なのか。

キム 結局、実は多数決、ということだと僕は思っています。社会の多数決で決まったものを、合理性と言ったり、常識と言ったりしているのではないかと。加えて、それに順応して生きたほうが、誰からも何も言われないし、ラクに生きられる。そういうときに、規範、真実、常識などの言葉が持ち出されてくるのだと思っています。でも、そういうものは結局、多数決でまた変わったりするんです。多数派が変われば、中身も入れ替わったりする。

『超訳ニーチェの言葉』の中にも出てきますが、そもそも国家の存在意義にしても、ある意味歪んだモチベーションに基づいているわけですよね。国家の存続が最初の目的なわけですから。ここからスタートすると、その後にやることの正当性は、すべて存続を前提に作られることになる。

 個が自立して、自分で考えないと、そうした集団的な風景に飲まれてしまうと思っています。結果的に組織が犯す、不正や悪い行いも、無意識的に同調してしまったり、貢献をしてしまったりするようなことになりかねない。自分の目で見て、自分の頭で考えて、自分の言葉で表現をして、自分の判断で行動ができる人間になることが大事だ、とニーチェは強調している気がします。

打算や思惑のない言葉こそ、伝わる<br />【(『超訳ニーチェの言葉』)白取春彦×ジョン・キム】(後編)
ジョン・キム(John Kim)
慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科特任准教授。韓国生まれ。日本に国費留学。米インディアナ大学博士課程単位取得退学。中央大学博士号取得(総合政策博士)。2004年より、慶應義塾大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構助教授、2009年より現職。英オックスフォード大学客員上席研究員、ドイツ連邦防衛大学研究員(ポスドク)、ハーバード大学法科大学院visiting scholar等を歴任。アジア、アメリカ、ヨーロッパ等、3大陸5ヵ国を渡り歩いた経験から生まれた独自の哲学と生き方論が支持を集める。本書は、著者が家族同様に大切な存在と考えるゼミ生の卒業へのはなむけとして毎年語っている、キムゼミ最終講義『贈る言葉』が原点となっている。この『贈る言葉』とは、将来に対する漠然とした不安を抱くゼミ生達が、今この瞬間から内面的な革命を起こし、人生を支える真の自由を手に入れるための考え方や行動指針を提示したものである。

白取 その意味では、ニーチェはアナーキストなんですよ。ところが、日本は、アナーキズムが出にくい国ですね。権力構造が、あまりにぼんやりしているから。だから、権威に従わないヤツはダメだ、という空気が出てくる。常識や規範が、ここまでがんじがらめの国も少ないでしょう。

 陰湿なイジメは、あれは一種の日本的な特徴だと僕は思っています。あれは単に子どもたちの問題だけじゃなくて、そもそも日本の社会が、何かから逸脱することを許さないからですよ。町だって、村だって、会社だって、何かの組織だって、グループだって、権威に従うことを求めるから。何かの権威が決めた常識やら規範やらが、大手を振っているからです。実際には、権威も常識も規範も、極めてぼんやりしたものであるのに、です。

キム なんとなく多数決で決まっているのに、ですね。しかも、一度決まった多数決を、遵守することを求められる。その多数決の内容が、時代環境の変化でもうすでに価値を持たないものになっているとしても、です。