IT黎明期に日本のみならず世界を舞台に活躍した「伝説の起業家」、西和彦氏の初著作『反省記』(ダイヤモンド社)が出版された。マイクロソフト副社長として、ビル・ゲイツとともに「帝国」の礎を築き、創業したアスキーを史上最年少で上場。しかし、マイクロソフトからも、アスキーからも追い出され、全てを失った……。20代から30代にかけて劇的な成功と挫折を経験した「伝説の起業家」が、その裏側を明かしつつ、「何がアカンかったのか」を真剣に書き綴った。ここでは、世界中に人的ネットワークを築き上げた西氏の「手法」を明かす。

仕事で結果を出すのは、「低姿勢だけど図々しい」人であるPhoto: Adobe Stock

「人脈」をつくる最も簡単な方法

 僕は、1980年ごろ、20歳そこそこで、日本の主要メーカーの一流のエンジニアと生意気にも対等に話をし、名だたる経営者とも膝を交えて話をさせていただいていた。

 若造だった僕にそんなことが可能だったのは、当時、パソコンの本場アメリカの「人的ネットワーク」=「情報ネットワーク」にアクセスできていた稀な存在だったからだ。世界で通用するパソコンをつくるためには、本場アメリカの「情報ネットワーク」に入っていることが絶対条件。だからこそ、僕に「価値」があったのだ。

 では、どうやって、そんな「情報ネットワーク」にアクセスしたか?

 そんなの簡単。本場アメリカに行ってみる。そして、パソコンの情報ネットワークの真ん中に飛び込むのだ。僕はパソコンに興味をもっていたから、自分が「面白そうだ」「行ってみたい」と思ったところに、出かけていった。種を明かせば、それだけのことなのである。

 連載第7回で書いたように、僕は、1976年11月に日本初の「ホビー・エレクトロニクスの情報誌」である『I/O』の創刊に参画したが、すぐに編集方針や経営方針に不満をもつようになった。そして、1977年5月上旬に、創刊メンバーと大喧嘩をして『I/O』と訣別するのだが、実は、その1ヵ月ほど前、ほとほと嫌気がさしていた僕は、「取材に行ってくる」と言って、アメリカに飛んでいた。