佐藤優氏絶賛!「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」。「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。死に対して、態度をとれない。あやふやな生き方しかできない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、仏教、神道、儒教、ヒンドゥー教など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。
現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』が発刊された。コロナの時代の必読書である、本書の内容の一部を紹介します。連載のバックナンバーはこちらから。

中国で「強力な政権」が必要だった3つの理由Photo: Adobe Stock

儒教は神を信じない

 中国の宗教はまず、儒教。そして、道教と仏教。この三つが重要だ。この三つは、死についての考え方がそれぞれ違う。だが、関連してもいる。ここでは主に、儒教について考えよう。

 まず疑問なのは、儒教は果たして宗教なのか。儒教は神を信じない。宗教らしくない。むしろ、政治学にみえる。儒教のどこが宗教なのか。

 儒教は、政治を重視する。経済も文化も宗教も、政治に比べれば二の次、三の次だ。儒教の古典は、どうすればよい政治ができるかのマニュアルだ。にもかかわらず。儒教は、宗教だとみてよい。理由はこうである。

 ひとつは、皇帝が、天を祀る。皇帝は、儒教の正統な統治者だ。皇帝はその地位を天に与えられた。その天命に応えるために、機会あるごとに天を祀る。天を祀る資格があるのは皇帝だけ。正統な統治者であることのデモンストレーションである。目にみえない天を祀るのは、宗教であろう。

 もうひとつは、中国の人びとがみな、祖先を祀る。祖先崇拝は、子孫の義務である。親(とくに父親)を尊敬し、親の親、親の親の親、…を祀る。こうして、父系血縁集団ができあがる。この血縁のネットワークが、権力や富に頼れない一般の人びとにとって、身を守る安全保障になるのである。

 このふたつを除けば、儒教に宗教らしいところはない。儒教は、宗教に関心がない。孔子は「怪力乱神を語らず」とのべた。いや、関心がないのではない。宗教に対してはっきり警戒感がある。敵意がある。中国の歴代王朝はほぼ例外なく、宗教叛乱(はんらん)によって倒された。

 宗教を警戒し、抑圧し、排除する。宗教をライバル視する儒教は、やはり宗教だと言ってよいのではないか。これが、みっつめの理由だ。