大野耐一著『トヨタ生産方式』(1978年5月)がダイヤモンド社から発売されたとき、世の読者は、「あの閉鎖的なトヨタがなぜ?」と驚きの声を上げた。三河の地に閉じ籠もり、何やらごそごそと「かんばん」なる「ものづくり」をやっている、そのトヨタの副社長みずからがその全容を社会に公開したのだから、だれもが驚嘆した。閉じられた組織がオープンなトヨタへ変身するきっかけとなったのは事実だった。

大野耐一「社会に真意を知ってもらいたい。誤解を払拭したい」

 1973年秋の第1次石油ショックは日本企業を直撃し、自動車メーカーは軒並み赤字に転落したが、正体不明の「かんばん方式」(俗称)がトヨタを救ったというわけで俄然、「かんばん」が話題となった。誤解、曲解も巷に氾濫した。そんな時、東京からイトーヨーカ堂創業者の伊藤雅俊が大野を訪ねてやって来た。

「石油ショック後に伊藤さんがやって来ていろいろ話した時に、『在庫ゼロにすると欠品が生じ、お客さんを他店に奪われてしまう』と言われて弱った。伊藤さんほどの人が誤解するのだから、これは大変だ。誤解を払拭しなければと思った。『在庫ゼロ』と言ったことはない。そこで『必要最小限の在庫に対してプラス・マイナス・ゼロにする努力が不可欠』と答えた」と大野は言う。

 石油ショックに強い「トヨタ生産方式」(正式名)の評価は高まり、自動車産業以外の業種からも注目を集めた。批判の声も強まった。大企業の「下請けイジメ」として、共産党が国会で「かんばん方式」を取り上げた。また鎌田慧著『自動車絶望工場』(現代史出版会、1973年12月)が、トヨタの期間工(季節工)としての厳しい労働体験を伝え話題を呼んだ。

 大野耐一は終始一貫、「下請けイジメも人間性阻害も意図したことはない。トヨタ式の真意を伝えたい。すべては歴史が証明する」という姿勢だった。大野耐一の確固たる意志と編集者の熱烈な思いが合致したことで、至難と思われた『トヨタ生産方式』は世に出ることとなった。