出光興産創業者・出光佐三Photo:JIJI
 出光興産の創業者、出光佐三(1885年8月22日~1981年3月7日)による手記である。出光は『わが四十五年間』という自伝を1956年に著しているが、その2年前に当たる「ダイヤモンド」54年12月3日号に「理想の実現が私の仕事だ――首尾一貫の40年」と題して掲載されたものだ。

 出光は「人間尊重」という言葉を重んじた。「出光商会の主義の第一は人間尊重であり、第二も人、第三も人である」と、出光は創業以来、同社の経営の基本方針として掲げ続けた。

 この前年に出光は、石油の国有化政策を巡って英国と抗争中だったイランにタンカー「日章丸2世」を極秘裏に差し向け、英国海軍の海上封鎖を突破して石油を買い付ける「日章丸事件」を起こしている。出光と英国資本の石油メジャーのアングロ・イラニアン石油(現ブリティッシュ・ペトロリアム)との間で繰り広げられた法廷闘争では、出光が勝訴。石油メジャーにケンカを売り、勝利したことで、大いに世間の注目を集めた。

 その動機と経緯については、手記の後半(下)で詳しく述べられているが、ベースにあるのは「人間尊重」であり、さらに「国家のために、消費者のために」という理念を貫いた結果だという。「人間は国家、社会のため、国民のために働く」という考えから、「国家のためにカルテルを見逃すわけにいかんぞ、ということになった」というのである。

 こうした「人間尊重」という信念が生まれた背景についても、自ら述懐している。一つは、神戸高等商業学校(現神戸大学経済学部)の初代校長、水島銕也の影響である。日露戦争後に資本主義が急速に発展し“金万能の時代”になる中、出光は水島から「金じゃない、人間だ」と薫陶を受けたという。

 さらに神戸高商時代の知人、日田重太郎からも大いに影響を受ける。出光は神戸高商を卒業したものの、実家が破産し、無一文。しかし独立自営の志を持ち、事業への熱意にあふれていた。そこに淡路島の資産家である日田が、「返済の必要もないし、利子も要らない。事業報告も必要ない」と、資金をポンと提供するのである。日田からはただ、「君の思うようにやれ。ただ僕の希望したいことは、兄弟仲良く、そうして終始一貫せよ」と言われただけだった。

「これは人生の大哲学である。人に恩を着せない。自分を捨てて人のためにする。その人を信じて、一切を任せる。これは信頼感の絶頂である。兄弟仲良くやれとか、主義を一貫せよという言葉の中に、社員をかわいがれとか、独立自営を貫けとか、いろいろなことが皆入っている。非常に大きな教訓を受けた」と出光は語っている。以降、出光は大家族主義を掲げ、出光興産に労働組合も、出勤簿も、定年制も設けなかった。利益は社員だけで分かち合いたいという思いから株式公開にも否定的だった。

 出光興産のこの人間尊重、大家族主義、反拝金主義などの理念は出光の没後も貫かれたが、2000年以降の経営悪化を受け、石油業界に吹き荒れる業界再編の波の中、生き残るために外部資本の導入を余儀なくされた。06年に株式を上場。それに伴い、創業家は経営から撤退した。その後、業務提携先である昭和シェル石油との経営統合の話が進む。創業家は合併に反対し、この計画はもめにもめたが、19年に昭和シェル石油との経営統合が実現している。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

苦しみを楽しみとする
そこに私の一生がある

ダイヤモンド1954年12月3日号1954年12月3日号より

 私は人間というものは苦しいものと思っている。苦しみは死ななければなくならない。しかし、その苦労は無意味なものではない。苦労をすればするほど人間らしくなる。

 僧侶とか学者とか、現実的でない人は死ぬまで修養している。

 修養は今の人に言わせれば苦しみである。私に言わせれば、その苦しみを楽しみとするわけである。刹那主義で、今日ぜいたくをして、うまい物を食って、いいことをして終わるだけだったら、犬や猫とどこが違うか。

 しかし、初めは修養を非常に苦しみと思った。どうしてこんなに苦しむのかと思ったが、それを苦しみと思っておったのではしようがないから、しまいに、それを楽しみに思うように変えただけの話である。そこに私の一生がある。