打倒「森永・明治」、ロッテが歩んだ菓子メーカー王者への道

悲願の「打倒ハリス」を達成し、ガムで国内トップメーカーの座を奪取したロッテの次なる目標は「打倒森永製菓・明治製菓」。周囲の反対を押し切って、業界の盟主が握るチョコレート市場への参入を決断、外国人技術者のスカウトと巨額の設備投資へと踏み切った。板ガム参入のプロモーションで見せた重光の鬼才的マーケティングセンスはここでも発揮され、わずか2年でチョコ製造にこぎ着けた重光武雄に率いられたロッテは、総合菓子メーカーへの道を駆け上がっていくのだった。(ダイヤモンド社出版編集部 ロッテ取材チーム)

「打倒森永製菓・明治製菓」で“製菓の重工業”チョコレートに参入

「チョコレートを始めるからには、明治製菓や森永製菓以上の製品をつくれる自信がなければ絶対に開始しない。また、それができなければわが社がチョコレート生産を開始する意味がない。日本の消費者がいまだに食べたことのないほどおいしいものを製造しなければならない」(*1)

 即断即決をモットーとしてきた重光。幹部社員はもちろんのこと、メインバンクまで反対したチョコレート市場への参入を独断で決めたものの、事業開始には慎重の上にも慎重を期していた。社の内外で反対が根強く、また極秘プロジェクトだったとはいえ、準備開始から1年たっても重光のゴーサインの号令が出る気配はなく、冒頭の重光の“至上命令”が重くのしかかり、幹部たちがその達成のため秘かに奔走する日々が続いていた。

 1961(昭和36)年にロッテは、悲願の「打倒ハリス」を1000万円懸賞で達成し、ガム日本一の座を奪取した。重光は次なる目標「打倒森永製菓・明治製菓」実現のために、チョコレート市場への参入を決断、その事業化調査のために同年11~12月に販売子会社・ロッテ商事の役員2人をそれぞれ、米国と欧州に派遣したのだった。それは、重光の「ガムだけで社業を維持していけるのはあと5年。その時のためにもわれわれは、チョコレート市場に打って出なければならん」という強い危機感によるものだった(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)。

 63(昭和38)年当時まで、ガム市場は急成長しており、55(昭和30)年と比較すると、ビスケットの1.5倍、チョコレートの1.9倍に対し、ガムは3倍と、ダントツの成長を遂げていた。だが、それが重光の目には不安材料として映っていたのである。

「(ガム市場は)あと3~4年でピークに達し、その後は増減率はぐっとなだらかになるであろう。(中略)需要が限界に達したときに、発展のみしかしらないロッテに、現在のような急速な発展を約束してくれるものは一体何であろうか?」(*2)

 実際、重光の予測通り、63(昭和38)年頃からガム市場の成長は鈍化し、高度成長まっただ中での生活水準の向上もあってチョコレートが成長率トップとなり、菓子市場を牽引していく。

 まさに、先見の明としか言いようがないが、チョコレート参入にもまた重光の経営者としての冷徹な判断が働いていたのは間違いない。

 実はロッテが“チョコレート”を製造するのは初めてではなく、51(昭和26)年にわずかながら製造・販売したことがある。またライバルだったハリスの経営の礎を築いたのも、48(昭和23)年発売の「ハリスチョコレート」である。ただし、当時作ったチョコレートは、「代用グルコースチョコ」と呼ばれたもので、グルコース(ブドウ糖)を主原料とし、これに香料などを加えて、チョコレート風の味と香りを付けた代用品だった。正確に言えば、当時の日本には“本物”のチョコレートを作る原料はなく、代用品しか作れない状況にあったのだ。それでも、49(昭和24)年には、東京都復興宝くじの景品用に約80万枚のグルコースチョコレートが納品されるほど、国民は甘味に飢えていた(*3)

 チョコレートの主原料はカカオ豆、カカオバター、全脂粉乳、砂糖の4つである。だが、戦後、“本物”のチョコレートの生産が可能になったのは外貨資金割当制度によりカカオ豆の輸入が再開された51(昭和26)年のことだ。60(昭和35)年にようやくカカオ豆・ココアバターの輸入が自由化され、チョコレートが自由に生産できるようになった。つまり、ロッテにすれば、経済統制に手足を縛られていた大手老舗メーカーが生産設備の拡張や更新に動き始めたばかりのこの時期こそが、新規参入には千載一遇のチャンスであり、もしこの機会を逃せば次のチャンスは二度となかっただろう。

 役員2人が海外に派遣されたのと同じ61(昭和36)年11月、ロッテ商事社内では、2年後の63(昭和38)年の秋にチョコレート市場に参入するとした、「チョコレート準備生産計画書」が完成していた。役員2人はこの計画書を手に欧米に飛び出していったのだ。さらにこの半年前にはロッテ商事内に「貿易課」が新設され、ロッテ商事やロッテ本社の幹部が頻繁に海外出張を行うようになっていたという。

 この頃から、ガム用の天然チクル調達とともに、国内外でチョコレート生産のための調査研究を本格スタートしたとも見られる。そんな当時の様子が社史『ロッテのあゆみ』にはこう描かれている。

「調査研究が外国のものばかりでないのは当然のことであった。ある秘密調査機関を使って、当時の日本のチョコレートメーカーの設備、機械の状況をはじめ、チョコ生産にたずさわっている技術者や研究者なども、その出身校から経歴まで全部調べ上げられたといわれている。市販されているチョコレートがどのように作られたか。その特徴がどこにあるかが分析され、研究されたのは言うまでもない」

*1 『ロッテのあゆみ』只野研究所、1965年
*2 『ロッテのあゆみ』只野研究所、1965年
*3 『日本チョコレート工業史』 日本チョコレート・ココア協会