田原総一朗氏Photo by Teppei Hori

「日本の生き字引」ともいえる稀代のジャーナリスト・田原総一朗氏。甚大な被害をもたらした東日本大震災から10年がたち、あらためて東日本大震災とは何かを振り返るとともに、福島第一原子力発電所事故が起こる30年近く前から原子力エネルギー問題を追っていた田原氏に、これからの日本のエネルギー政策について聞いた。(聞き手/ダイヤモンド編集部 長谷川幸光)

「多分これ、収録しても
明日の放送はないよ」

――東日本大震災から10年がたち、その間、若い読者も増えました。あらためて東日本大震災とエネルギー、そして政治についてをお聞きできればと思います。田原さんは10年前の震災発生時、何をしていましたか?

田原総一朗田原総一朗(たはら・そういちろう)  1934年、滋賀県生まれ。1960年に早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。1964年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)に開局とともに入社。1977年にフリーに。テレビ朝日系「朝まで生テレビ!」等でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。1998年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ「城戸又一賞」受賞。早稲田大学特命教授を歴任(2017年3月まで)、現在は「大隈塾」塾頭を務める。「朝まで生テレビ!」「激論!クロスファイア」の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数。  Photo by Teppei Hori

 東京のテレビ局にいて、テレビ番組の収録前の打ち合わせをしていた。その時に、震災が発生した。番組が始まるまでの間に講演会がひとつ入っていたが、主催者と連絡が取れず、開催するかどうかはわからない。でもとりあえず中抜けをして、講演会の会場であるホテルオークラへ向かった。

 オークラに到着しても、相変わらず主催者とは連絡がつかないまま。でも会場には来てしまったし、お客さんもすでに待っていたので、余震の中、講演を行った。JTB主催の講演会だったため、お客さんもホテルや旅行関係者が多かったと思うけれど、皆、携帯電話で話したりしながら、会場を出たり入ったり。講演会が終わる頃には、オークラの庭は避難所になっていたのか、ヘルメットをかぶった人たちがたくさん集まってきていた。

 講演会が終わり、テレビ局へ戻ると、ゲストの予定だった渡部恒三さん(厚生相や通商産業相を務めた渡部恒三・元衆議院副議長。2020年没)が、「多分これ、収録しても(この状況では)明日の放送はないよ」と。

 その時、まだ東北の津波の情報は我々のもとには届いていなかったけれど、地元が大変だからこのまま福島へ行くと言っていた。渡部さんは福島県出身だからね。また、その番組のコメンテーターとして、ジャーナリストの星浩さんもその場にいたけれど、星さんも福島出身。そのため、皆、番組収録どころではなくなってその日は解散となった。その後はご存じの通り、世の中が大変なことになった。

――日本は世界の中でも有数の原子力発電所の保有国ですが、そもそも日本はなぜここまで、原子力発電所が増えたのでしょうか?

 第2次世界大戦後、当時の主な電力源は石炭や石油による火力発電だった。でもこれらの燃料はいずれ枯渇する。そこへオイルショックも起こった。資源がなくエネルギー自給率が低い日本はどうすればいいか?そこで、当時、衆議院議員だった中曽根康弘氏(のちの首相)が正力松太郎氏(読売新聞社主、日本テレビの初代社長)とタッグを組んで、「原子力発電なら半永久的に使える」と原子力発電を推進し、原子力発電の時代が到来した。

――『鉄腕アトム』は原子力をエネルギー源とする少年ロボットが活躍するアニメですが(※原作者の手塚治虫氏は晩年、原子力発電を推奨する意図がなかったことを明確に述べている)、原作では悩める主人公であったのがアニメではヒーローとして独り歩きし、それが大衆に受け入れられてブームとなりました。当時、子どもから大人まで、原子力に対する印象は「戦後の暗い世相を明るく照らす夢のエネルギー」だったのでしょうか?

 そうだろうね。その頃は皆、賛成。もちろん反対運動もあったけれど、とはいえ、代替案があるわけでもなかったので、そのまま原子力発電は進められていった。1986年にソ連(ソビエト連邦、当時)でチェルノブイリ原子力発電所事故が起きた際、原子力発電に対する反対運動は起きたが「ソ連は技術がないが、日本なら大丈夫」と言われており、日本国内でそこまで大きな動きにはならなかった。ここまで原子力発電の有無が本格的な議論になったのは、やはり東日本大震災以降。

 実はチェルノブイリ原発事故の前、1969年に日本で最初の原子力船が完成している。青森県の陸奥湾を母港としたために「むつ」と名付けられた。原子炉へ核燃料を装荷し、1974年に太平洋上で出力上昇試験を開始、その直後に放射線が漏れる事故が発生した。

 僕はその頃、開局したばかりのテレビ東京(当時は東京12チャンネル)の社員だったけれど、その事故を取材し、原子力発電というテーマに興味を持った。当時は未来のエネルギーだ、これからのエネルギーの主流だ、といわれていたけれど、果たしてこれから原子力はどうなるのかと。その頃、『展望』(筑摩書房刊。1946〜1978年)という雑誌があって、僕はそこで「原子力戦争」という連載を始めた。

 原発反対の運動がある一方で、原発推進の市民運動も起きていた。反対派も推進派もできる限り取材したが、推進派を取材していると、この運動のバックに大手広告代理店がいることがわかった。どこかというと、電通。そのことを連載に書いたところ、会社(テレビ東京)から「連載をやめてくれ」と言われた。どうやら電通から「こんなことを書く記者がいるテレビ局には、もうスポンサーをしないぞ」と連絡があったらしい。テレビ東京は、当時はまだ小さな放送局。電通がスポンサーをやめたら会社の経営は傾いてしまう。「もし連載をやめないなら会社を辞めてくれ」とも言われた。

――田原さんはどうしたのですか?