14勝1分け3敗――ヘッドコーチとしてオーストラリア、日本、イングランドの3ヵ国を率いたエディー・ジョーンズのワールドカップ3大会での戦績だ。残した数字を見ただけでも、彼を名将だと言って異論を唱える者はいないだろう。
エディー・ジョーンズはいかにして奇跡を生んだのか! 2015年ワールドカップで「ブライトンの奇跡」といわれた南アフリカ戦から2019ワールドカップでのイングランド準優勝にいたるまで、エディーは何を考え、行動したのか。初の公式自叙伝となる『エディー・ジョーンズ わが人生とラグビー』の訳者髙橋功一さんにこの本のエッセンスを聞いていく。(構成・編集部)

「私の仕事に対する妥協を許さぬ姿勢は、母から受け継いだものだろう」

エディー・ジョーンズの少年時代の夢は<br />「ラグビー選手」ではなく、別のスポーツでスターになることだった。Photo: Adobe Stock

――16歳でエディー・ジョーンズさんは、ラグビーを始めたのですが、「マトラヴィル・ハイスクール」という高校が、有名な高校ではないけれど、才能あふれる選手が多くいたんですね

髙橋 第1章で、セント・ジョエイズ・カレッジとのゲームの様子が描かれています。ジョエイズは、恵まれた環境のなかで才能豊かなプレーヤーがスキルを磨くことのできる名門校で、マトラヴィルがこの学校に完勝するのですから驚きます。ですが、高校の州代表レベルではマトラヴィルから9人が選抜され、さらにそのなかからエラ3兄弟とロイド・ウォーカーの4人のバックスプレーヤーが、後のワラビーズに選出されていきますから、チーム力は相当高かったと想像できます。

 でもエディーさんも語っていますが、彼らの自由奔放なラグビーは、単に奇をてらった変則的スタイルではありませんでした。チーム全体が、「ライン攻撃でのランとサポート、パスとキャッチの正確さといった、ゲームに必要不可欠なスキルの上に築かれたもので、そうした基本をマスターすることがゲームの勝利につながると理解していた(第2章「ランドウィック・ウェイ」)」のです。

――エディーさんの夢は、ラグビー選手ではなく、クリケットのスタープレーヤーというのも面白いですね

髙橋 実際、本書のなかでエディーさん自身、「そのころの私はラグビーよりもクリケットのほうが上手く、小学校のチームではキャプテンを務めた。(第1章「自由」)」と言っています。

 日本ではなじみの薄いクリケットですが、いわゆるイギリス連邦ではとても人気の高いスポーツのようですね。イングランド・ラグビー代表チームが気分転換にクリケットをする場面も、本書に何度が出てきます。日本の少年たちが「将来はプロ野球選手になりたい」、「サッカー選手になりたい」というのと似た感覚だったのではないでしょうか。

――「スポーツは社会に受けいれられ頭角を現すための切符だった」というエディーさんの言葉が印象的でした

髙橋 エディーさんが育ったのは、オーストラリアのシドニーにあるリトルベイという場所でした。近くのラ・ペルーズにあるマトラヴィル・ハイスクールには、白人労働者階級の荒っぽい子どもたちが通っていたと書かれています。そんななかで彼自身、オーストラリア人と日本人のハーフであるために、自分の外見が人と違っていることに気づき始めいていて、本来ならよそ者扱いされるところだったのを、スポーツが救ってくれたというわけでしょうね。

 言ってしまえば簡単ですし、エディーさんは細かくは触れていませんが、おそらく毎日の生活のなかで様々な苦難や葛藤があったのではないでしょうか。でもエディーさんはそんな子ども時代を、両親に守られながらのびのびと過ごしていったようです。「学生時代の私は、ラ・ペルーズやマトラヴィルから帰るとバッグを放り投げ、一目散に公園へ向かうと、夏はクリケット、冬はタッチラグビーに興じたものだ。我々は暗くなるまで遊び、急いで走って家に帰ると、手足を洗い身なりを整え、家族で夕食のテーブルを囲み、就寝前に宿題を終わらせた。翌日も同じことの繰り返し。(中略)それは労働者階級地区にありがちな、スポーツとともにある毎日だった。(第1章「自由」)」

 最終的には目標だったワラビーズ(オーストラリア代表選手)にはなれませんでしたが、あの小さな身体で州代表までいったわけですから、いずれにしてもエディーさんの身体能力はかなり高かったのでしょうね。

――当時のオーストラリアでは、15人制のラグビー(ユニオンラグビー)はマイナーで、13人制のリーグラグビーがメジャーだったんですね

髙橋 エディーさんは本書のなかでこう言っています。「当時のオーストラリアでは、15人制のユニオンラグビーは私学出身者や富裕層が好むマイナーなスポーツだった。実際にプレーされていたのはニューサウスウェールズ州とクィーンズランド州だけだった。その2州でも人気の面では13人制のリーグラグビー、オーストアリアンフットボール、クリケットに大きく水をあけられていた。(第1章「自由」)」

 ユニオンラグビーがプロ化するのはもっと後のことで、そのころはまだアマチュアスポーツでしたから、仕方なかったのでしょうね。

――多くの方はご存じないと思いますが、エディー・ジョーンズさんは、日本人の母親(国籍的には日系アメリカ人)とオーストラリア人の父親との間に生まれたんですよね。

髙橋 エディーさんの母方の祖父は、第一次世界大戦後に新天地を求めてカリフォルニアに移住し、そこでエディーさんのお母さん、ネリーが生まれます。彼女の出生地はアメリカですが、日本人夫婦の間に生まれた子どもなので、日本人と言って差し支えないと思います。彼女はエディーさんをオーストラリア人として育てようとしますが、日常生活では日本の風習や価値観に影響されていますね。第1章にはそんな家庭の様子がたくさん描かれています。

――エディーさん自身も「私の仕事に対する妥協を許さぬ姿勢は、母から受け継いだものだろう」と語られていますよね。

髙橋 この点は非情に興味深い部分なので、少々長いですが本文から引用したいと思います。「母は(オーストラリア人の父とは)対照的な性格で、私たちは幼いころから規律を守り、きちんとした生活態度をとるよう教えられた。母は自分が幼い頃に辛い思いをしただけに、自分の子どもたちには才能を無駄に遊ばせてはいけないと考えていた。母は、人生は貴重な贈り物であり、人はそれを最大限に活用すべきだとよく口にしていた。(中略)私の仕事に対する妥協を許さぬ姿勢は、そんな母から受け継いだものなのだろう。私は母をがっかりさせたくはなかった。彼女が私を見守り、関心を寄せてくれるのが嬉しかったし、常に母の言いつけを守ってきた。後年、コーチという仕事に就いてから、今度は私がプレーヤーにハードワークへの期待と願望を抱くようになる。細部に至るまで規律と注意を怠らない私の資質が果たして日本人としてのものなのか、それとも単に母から譲られたせいなのかは定かではない。(第1章「自由」)」これがエディーさんの原点なのでしょうね。

――第二次世界大戦がはじまると、エディーさんの母親は「強制収容所」に送られた経緯も書かれていて驚きました

髙橋 母親は祖母と一緒の収容所に送られますが、祖父だけは別の施設に収監され、4年もの間、過酷な毎日を送りました。祖父はこの辛い経験があったので、第二次大戦後は家族全員を日本に引き揚げさせ、広島の近郊に落ち着きます。すると今度は母親のネリーが、慣れない日本での生活に苦労するのですが、そんななか、この広島の地で父のテッドと出会うことになるわけで、エディーさんの人生はよくよく日本に縁があるようです。

 祖父母のみならず、両親、そしてエディーさん自身も、国籍やハーフという問題から様々な苦労を重ねてこられていますが、日本代表について書かれた第11章にはこんな一説があり、ちょっと胸が熱くなる思いがしました。「私がサントリーにいたころ、父と母は、私たち家族に会うために2度ほど来日した。1950年代に出国して以来、日本に戻ってきたのはそれが初めてだった。(中略)父と母は新婚の頃に住んでいた東京の家を探そうとした。その場所は現在、有数の高級住宅街になっていて、結局見つけられなかった。(中略)残念だったが、両親が再びこの街を歩き回れたのがどれほど嬉しかったか、手に取るように分かった。ふたりは表だって口にはしなかったが、私自身は、母国オーストラリアと母の祖国日本の両国でヘッドコーチを務めたことを誇りに思っている。(第11章「日本代表を作り上げる」)」

――そのシーンは印象的でしたね。連載の第3回では、エディー・ジョーンズさんがラグビー選手として、コーチとして影響を受けた重要な人物について、お話をお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。