不朽#堤清二
 前回は、1987年7月18日号に掲載された西武鉄道グループの元オーナー、堤義明のインタビューを紹介した。今回は義明の異母兄で、西武流通グループの代表を務めた堤清二(1927年3月30日~2013年11月25日)だ。義明の記事と同じく、インタビュアーは精神科医でノンフィクション作家の野田正彰。経営者の自己理解と経営思想との関連を探る「ザ・経営者」という連載企画の中の1本である。

 前回の義明のインタビューでは、絶対君主ともいえる父、康次郎との緊張関係と、康次郎の正妻ではなかった生みの母、石塚恒子への愛情と信頼について、野田は深く切り込み、聞き出している。ところが清二に対しては、その内面にほぼ入り込めていない。インタビューは2回に及んだというが、野田は「堤氏は、面接に入ると自己形成の過程について語るのを一切拒否した。やり直した2度目も同じだった」と、当時の記事に解説を加えている。最後の質問で父親との関係について触れるも、一般論としての社会評論ではぐらかされている。

 かくもあからさまに父親との関係や、自己形成の過程に関する答えを拒否するさまは、むしろ“そうすることによって伝えたいこと”があったのだと邪推せざるを得ない。小説家、詩人でもある清二らしく、直截的で分かりやすい表現は用いないのである。

 成功した事業家であり、政治家でもあった父に逆らい、清二は東京大学在学中に学生運動に加わり共産党に入党(後に除名)、資本主義を否定する側に立った。西武王国の本丸である鉄道グループの後継者は義明に託され、清二は池袋にあった二流の西武百貨店を受け継いだわけだが、小売り事業に“文化”の香りを持ち込み、「セゾングループ」という企業集団を一代で築いたのは、清二の父や異母弟に対する対抗心故にほかならない。

 また、何よりインタビューからは、時代変化の中で湧出する社会の矛盾や対立に、清二が強い興味関心を向けていることが分かる。そこにビジネスチャンスを見いだし、事業展開の核に据えていくというのが清二の手法だった。その意味では、自身が抱える内面性も含めて矛盾や対立といった複雑な構図を経営の原動力にした類いまれなリーダーといえるだろう。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

西武はひどい百貨店だった
大反対の中、多店舗化を決意

1989年10月7日号1989年10月7日号より

 1954年に入社した当時の西武百貨店は、ひどい会社だった。毎月赤字だったし、幹部に不正はある。“ニシタケさん”と呼ぶ問屋もたくさんいたぐらいだ。

 一流百貨店を目指して、経営の近代化を図ろうとするのだが、流通業に関心のない先代(堤康二郎)は売り上げを土地買収資金として取り上げる、大卒の採用は許さない。苦闘が続いた。

 それでいて1962年には強引にロサンゼルスに出店させられた。予想通りの大失敗で、ようやく先代が閉めてもいいと言った翌年には、国内の利益で埋めるには20年はかかる欠損があった。もはや拡張策に出るしかない。そこで、多店舗化を決意、渋谷、船橋に出店することにした。

 社内外とも大反対だった。親父が亡くなった直後で、西武鉄道は「うちも借金がたまっていて引き締めに入るのだから、子会社も協力しろ」と言う。では勝手にやるから別れさせてくれと言った。百貨店は内容も悪いし、清二というのはむちゃしそうだからと言って認めてくれた。植民地が極貧のままに独立したわけだ。しかし、自由を得たおかげで今日がある。

 第1次多店舗化とほぼ同時に、スーパーの西友をつくり、第1次多角化も始めた。この時期が、私の経営者としてのスタートだ。当時は、三流百貨店がパリに買い付けの駐在事務所を置いたり、スーパーをつくってどうなるんだと、業界の笑い者になった。外から見ると、あがいてめちゃくちゃやっていると捉えられたのだろう。

 しかし、分析は綿密だったし、自信もあった。彼らは、業態が違えば市場が違うことを知らなかった。