起業への経緯や、その動機は人それぞれだが、共通するのは挑戦心や自分にはできるという自己肯定感。そうした思いはどのように育まれてきたのか。今回は、エレベーター内のスマートディスプレーを手掛ける株式会社東京の羅悠鴻(らゆうほん)さん。天文学者から起業家に転身した背景には、その先に見据えるとんでもなく大きな夢がありました。(聞き手/ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

全てを失っても
頭の中身だけは奪われない

――ご両親は中国出身ですね。

羅 悠鴻・東京 代表
東大理学部では「はやぶさ2」のグループリーダー、杉田精司教授の下で学んだ Photo by Masato Kato 拡大画像表示

 大学教授の父は1963年、プログラマーの母は68年と、文化大革命の最中に生まれています。

 父方は明の時代からの家系図が残る古い商家で、祖父は米屋を経営して裕福な暮らしをしていましたが、文革で没落。お金は頼れないものだと気付かされ、全てを失っても頭の中身だけは奪われないと考えるようになり、子供には徹底して教育を施したそうです。

 母方の祖父は高校の先生で、やはり知識人。だから文革では命の危険もあったのですが、毛沢東の似顔絵を描くのが上手だったから生き延びたといわれています。

 父は国費留学第1世代として日本へ、母も少し遅れてやはり日本へやって来て、そこで僕が生まれました。それからは、ずっと日本で暮らしています。

 父が留学先に日本を選んだのは、ジャパン・アズ・ナンバーワンといわれていた当時、今の米シリコンバレーに対するような興味を持ったからです。祖父も、新宿の高層ビル街を見て「なんてすごいんだ」と驚いたそうです。

 その後、僕の大学の入学式に合わせて祖父が久しぶりに来日したとき、再び新宿を見て、今度は20年近く何も変わっていないことに逆に驚いていましたけど(笑)。

――頭の中に蓄えたものは奪われないと考えているご両親は、やはり教育熱心でしたか。

 質問に真面目に答えてくれるところが、ほかの家庭とは違っていたのかなと思います。特に父は、子供相手だからとごまかすことも、レベルに合わせることもありませんでした。「虹はどうして7色なの」と聞くと「光とはそもそも波で、波長によって色が決まって……」などと説明し始めます。

 小3の頃には微分積分の講義をされました。おかげで、父の言った大事そうな単語をオウム返しするなど、理解してないけれど適切な相づちを打つ能力が高くなりました(笑)。これは後々、さまざまな場面で役に立ちました。

 母は父に比べると地に足が着いていましたが、でも、褒めてくれるのはいつも母でしたし、あと、僕は父よりも母の方が地頭がいいと思っています。24算と呼んでいた、加減乗除で24をつくるトランプゲームでは母が強くて、今でも僕は母に勝てないと思います。