重光武雄の「経営論」、生涯追求し続けた6つの原則とは

ついに韓国5位の財閥にまで上り詰めるほどの成功を収めたロッテグループ。日韓を股に掛けた巨大コンツェルンを率いたカリスマ経営者、日本名・重光武雄、韓国名・辛格浩(シン・キョクホ)の経営哲学は日韓で一貫しており、生涯ぶれることはなかった。経営者として、そして企業としても圧倒的な実績と知名度を誇りながら、重光武雄とロッテグループほど、その実像が知られていない例は他に類を見ない。果たして、重光が生涯貫いた経営哲学、そして経営の原理・原則と手法はいかなるものだったのか。ロッテグループを築き上げた重光経営の軌跡を「重光武雄の経営論」として振り返る。(ダイヤモンド社出版編集部 ロッテ取材チーム)

重光が生涯追求し続けた「信頼される人になる」

「私のモットーは、あくまでも信用、信頼される人です」
「人の世の中、どこの社会でも同じですが、真面目に働いて、周囲から信用されることです」
「事業をする人にとって、信用は生命であり、金です」

 冒頭のコメントはすべて重光武雄が発したものである。青雲の志を胸に玄界灘を渡り、早稲田に学びながら必死に働いていた頃から、重光が生涯追求したのは、「信頼される人間になること」だった。これは成功の秘訣であり、生涯を通じて追い求めたテーマでもある。

別荘(蔚山)で撮影した辛一族の写真ダム湖の底に沈んだ生家の近くに建てた別荘(蔚山<ウルサン>広域市)で撮影した辛一族の写真

『在日韓国人三百六十人集:在日同胞現代小史』という、韓日問題研究所が編纂した600ページに及ぶ大著がある。重光がこの本のインタビューを受けたのは60歳代半ばの頃で、ソウル五輪(1988<昭和63>年)を控え、ロッテワールドの建設に奔走していた時期である。その中で、冒頭のように重光は信用・信頼される大事さを繰り返し述べていた。

 この重光の経営哲学の根底にあったのは「人に迷惑をかけない」ことだった。前出の、巨額の資金を投入したロッテワールドが完成した年のインタビューでこう語っている。

「他の人に迷惑をかけないというのが私の哲学だ。失敗しても借金を返せる範囲内で投資をしてきた。不動産がその裏付けだ。失敗したらそれを売って返せばいい。韓国にはこれまでに3000億円近い投資をしてきたが、仮にこれが戦争でゼロになったとしても、どこにも迷惑をかけることはない」(*1)

 1960年代に周囲の反対を押し切って参入したチョコレート事業でも重光はこう振り返っていた。

「決して誰にも迷惑はかけない、と。自分の背丈に合った事業だけを手掛け、無理なことはしない。それが僕の主義なんです」(*2)

 そして、事業家として最も重視したこと。それは雇用を守ることだった。晩年の重光は認知症も見られたが、韓国の雑誌でインタビューをした記者はこのように記している。

「会長は質問を受ける途中、隣に座っていた弁護士に『ロッテの役職員は何人か』と尋ねた。『20万人です』という回答を聞くと再び話を続けた。『(従業員が)20万人が超えるじゃないか。その人々の生活があるじゃない。ロッテがなくなったら失業者になるだろう。それはいけない。責任があるじゃない。(だからロッテは)熱心にしている』」(*3)

 この記事では、「重光会長のリーダーシップは『父親精神』と感じられた。私がすべてを決定する、私が従え、私が責任を取るという確固たる考えがあった」と続けている。自分がロッテの全役職員の責任を負わなければならないという考えは、重光の頭の中から生涯消えなかったことをうかがわせる。

「自分を自慢するのが好きな人、自分を宣伝する人がたくさんいる。しかし私は自慢することが好きではない。だから自分の本を出すのも嫌だ。私には自慢するものが何もない」と家族に漏らしていた重光だが、唯一の自慢話が、雇用に関することだったという。

 いわゆるリストラを重光は一度も行わなかった。1982(昭和57)年に初めて売上高が前年度割れし、業績悪化で余剰人員が問題になったときにも、生産現場の社員を営業に異動して乗り越えている。

 退職金規定もユニークだった。ベースアップ交渉に際しては労務担当者に「ベア額を業界の2、3番手に抑えてくれ」と指示を出している。これは、「おたくは儲かっているんだから」と営業担当者が取引先からリベートを要求されるのを防ぎたかったというのがそのときの説明だった。

 ところが、退職金については、入社15年目までは明治、森永と同じ勤続年数支給率にしていたが、それ以降は両社の7割増しに設定したという。そう決めた理由が重光ならではである。

「俺と何十年も付き合ってくれたやつを大事にしよう」

 そんな重光が弱音を吐いたことがある。ロッテ創業(1948<昭和23>年)からまだ間もない1950年代に労働組合が結成され、総評の傘下になり、団体交渉を求められたときのことである。当時の様子を、世界で初めてチューイングガムの研究で博士号を取得する一方で、創業間もないロッテの人事諸制度の整備も重光から任されていた“ガム博士”の手塚七五郎が語る。

「重光社長は『俺は団交には出ない』って言うわけよ。『俺はもうね、会社辞める』と。『昔は屑拾いをやった経験もある。何やったって食っていけるんだ』って。そんな短気を起こさないでくださいと苦労して説得して、組合のことは、私が工場の若い連中とかいろいろ説得して、よく話し合いをして何とかするから、何とか会社辞めないでねと」

 重光は人前に出ることも、自慢話をすることも嫌った。自身のことも含め、釈明や弁明も嫌った。真実はいつか明らかになるという信念を持っていたようだ。それが晩年の脱税疑惑や経営権剥奪問題で仇となることは知る由もない。家族経営を標榜し、寡黙を貫いてきた重光にとって、社員(組合員)と面と向かって交渉することなど当時は考えられなかったのだろう。

 実際、重光の姿が一般社員の目に触れることはほとんどなかった。創立記念の辞などさえ本人が直接読むことはないし、正月は韓国で過ごすから新年の辞を社員が直接聞く機会もない。韓国での流通業参入のためにデパート幹部を三顧の礼で迎えるべく九州を訪れたときに、重光の顔を見たことがないロッテの幹部社員たちが福岡のホテルのロビーに押しかけたのは有名な話である。役職員から報告を受けるときにも、売り上げ・純利益・順位など数値について簡単に聞くだけで、業務指示を冗長に述べたりしない。経営数字は小数点以下もきっちり覚えていたが、それを自慢げにひけらかすことなどはしない。

 だから生涯に数え切れないほど受賞や叙勲・褒章の機会はあったが、実際に本人が出席したのは、重光が血と肉と汗をつぎ込んで作りあげたロッテホテルの功績に対して、韓国政府から授与された金塔産業勲章(1等級)くらいのもの。それ以外は、授賞式に出席するのが嫌で辞退してしまう。どうしても断り切れないものは、長男を代理で行かせ、本人が姿を見せることは無かった。それくらい、目立つことも、人前に出ることも嫌がった。ちなみに、重光が唯一、人目を気にせず公の場に出てくるのは、韓国で年に一度開催されていた、ダム湖の底に沈んだ生まれ故郷の出身者を集めた「芚期(ドゥンギ)会」を重光が招いて大盤振る舞いする大宴会のときだけだったという。

*1 『日経ビジネス』1989年8月28日号
*2 『週刊ダイヤモンド』2004年9月11日号
*3 『月刊朝鮮』2017年1月号