理化学研究所所長 大河内正敏

 日本の科学史に大きな功績を残してきた理化学研究所(理研)が誕生したのは1917(大正6)年3月である。渋沢栄一などの後ろ盾によって設立され、初代所長は帝国学士院長で元文部大臣の菊池大麓だった。しかし、菊池は就任5カ月で急逝、2代目所長の古市公威も健康上の理由から1921(大正10)年9月に辞任し、設立時から物理部研究員として参加していた当時42歳の大河内正敏(1878年12月6日〜1952年8月29日)が第3代所長に就任した。

 大河内の型破りな“経営”なしに、理研の発展はなかった。大河内は主任研究員にそれぞれ「研究室」を任せ、予算内であれば自由に裁量を与えた。また、発明や研究成果については、発明者個人に手厚い報酬を約束した上、1927(昭和2)年に理研の発明を製品化する理化学興業を創設。理研自らが工業化、事業化に取り組み、その収入を研究費に還元するというサイクルも確立した。ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎は著書『科学者の自由な楽園』の中で、自身が在籍した大河内時代の理研について、研究テーマについて外部から指示命令もなく、自主的で伸び伸びとしていたとつづっている。

 理研の研究成果から生まれた企業群は「理研コンツェルン」と呼ばれ、戦前は15財閥の1つに数えられた。太平洋戦争後のGHQ(連合国軍総司令部)による財閥解体で理研コンツェルンは消滅したが、理研光学工業(現リコー)を代表格に、リケン(ピストンリング)、理研計器(ガス検知器)、理研電線(金属線)、リケンテクノス(化学)、理研ビタミン(調味料)など、今も理研の名を残す企業は数多い。

「ダイヤモンド」1935年9月21日号に、「理化学研究所長、大河内博士に物を聞く会」という、そのものズバリなタイトルの記事が掲載されている。記事の前文を紹介しよう。

「大河内正敏博士は、学者であって、また実際家である。博士の建設したピストンリングの工場は、生産費の安いこと、世界無比、そして、その製品はいずれの国の製品にも優るので、たちまち著名の工場となった。その他博士は各種の事業を経営しているが、いずれも適切なる科学知識を応用して理想的の低コストを実現し、斯界の注意を一心に集めている。けだし博士のごときは学問を活用する真の学者というべきである。わが社では博士の学術的研究と体験より得たる貴い知識を読者に紹介すべく、多数記者出席の上、一夕、博士を擁して各方面の質問をした」

 理研の発足当時の話から、その経営方針、そして戦前の日本経済の大きな関心事だった日本の自動車産業、製鉄業や軽金属産業の展望、代用石油の可能性などについて、あらゆる話題について尋ねている。1万8000字に及ぶロングインタビューということもあり、3回に分けて紹介しよう。第1回は、理研の設立経緯から研究体制の特徴、理研コンツェルンの形成に至るまでの話である。特に当時、米騒動をきっかけに開発した、原料に米を使わない合成清酒「理研酒」の事業化に成功しており、それを題材に異なる研究(事業)分野が有機的につながる「芋づる式経営」なる独自の経営論も展開している。 (敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

理研の設立と産業貢献
政府の補助金を超える納税額

――理研の成立と今日までの経過、理研の学界、事業界に貢献した事績について、お話を承りたいのです。

1935年9月21日号1935年9月21日号より

 理研が成立したのは1916(大正5)年で、仕事を始めたのは、17(大正6)年からです。成立の経路は、世界戦争のために、日本に外国から薬品や染料が来なくなり、国民生活が不安になった。これが根本的対策として、科学の研究を盛んにし、日本において、全てのものを作るようにしなければならぬ、ということになった。

 当時、アメリカに住んでいた高峰譲吉(タカジアスターゼ、アドレナリンを発見した工学・薬学博士)君は、早くから、日本において、理化学研究所を起こす必要を説き、私が09(明治42)年にニューヨークで同君に会ったとき、「日本へ帰ったら、ぜひこういう研究所を起こしてくれ」と言われた。

 それから間もなく世界戦争(第1次世界大戦)が起こり、今言ったような気運になったので御下賜金100万円、民間の寄付金500万円、政府補助金25万円、それで研究所を建てようという案ができた。

 ところが、民間の寄付金は416万円しか集まらなかった。それでとにかく、研究所を建てた。政府の補助は22(大正11)年で一度打ち切りとなり、それからまた年々25万円ずつの補助を10カ年もらうことになった。この期限も昨年切れました。しかし、34(昭和9)年度は在来通り25万円の補助があり、35(昭和10)年度は10万円減って15万円になりました。今、私の方では36(昭和11)年度の補助を50万円要求しております。

 政府から見ると、こういう助成金は、ただ捨てているようですが、理化学研究所の研究は、やがて実際の産業となって現れてきます。そうすると、それが政府に税金を納める相当の額に上るのです。ですからこの補助は、税源の涵養として最も有力です。

 その証拠に、今日、理研自身が、政府に納める税だけでも1年50万円以上になります。35(昭和10)年度は、政府は理研に15万円の補助を与え、50万円の納税をさせるわけです。差し引き、政府は35万円もうけているわけです。このほか、理研から独立したピストンリング会社をはじめ、その他たくさんの会社があります。

 その納税額を総計すると、相当の金高になります。今まで補助した金など問題になりません。政府としてこれ以上利回りの良い投資はないといってよいくらいです。

――納税の主なるものはどんなものですか。