火の発見とエネルギー革命、歴史を変えたビール・ワイン・蒸留酒、金・銀への欲望が世界をグローバル化した、石油に浮かぶ文明、ドラッグの魔力、化学兵器と核兵器…。化学は人類を大きく動かしている――。白熱のサイエンスエンターテイメント『世界史は化学でできている』は、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞夕刊、読売新聞夕刊と書評が相次ぎ、発売たちまち7万部を突破した。
池谷裕二氏(脳研究者、東京大学教授)「こんなに楽しい化学の本は初めてだ。スケールが大きいのにとても身近。現実的だけど神秘的。文理が融合された多面的な“化学”に魅了されっぱなしだ」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。好評連載のバックナンバーはこちらから。

美と欲望の世界史…ギリシア神話の英雄ヘラクレスが発見した「ロイヤルパープル」とは?Photo: Adobe Stock

美しい染料と繊維

 衣食住のなかで、「衣」は暑さ寒さをしのぐだけでなく、美しく着飾りたいという人間の欲望とともに発展してきた。衣服は染料で染められている。染料となる物質は、美しい色を持っているだけでなく、布や糸にうまく染まるという染着性を持っていなくてはならない。

 さらには、染着性だけではなく、日光、洗濯、摩擦、汗などに対しても品質が安定して、染色後は変色したり色落ちしたりしないことが必要である。

 染料は繊維だけでなく、紙、プラスチック、皮革、ゴム、医薬品、化粧品、食品、金属、毛髪、洗剤、文具、写真などの着色や色素レーザーの発光にも使われている。

 ところで、染料には植物や動物から採取される天然染料と、化学的に合成される合成染料がある。十九世紀の中頃までは天然染料の時代だった。

 天然染料は、植物性染料と動物性染料に分かれる。植物性染料には、ウコン、アカネ、ベニバナ、スオウ(蘇芳)、アイ(藍)、ムラサキグサなどがあり、動物性染料にはコチニール、貝紫がよく知られている。

 アイの葉には青色の色素インジゴ(インディゴとも呼ばれる)、アカネの根には紅色の色素アリザリンがふくまれている。古代エジプトのミイラに巻く麻糸も、インジゴやアリザリンで染められていたのだ。

 アイの葉からのインジゴによる染色は、いまではごく一部で行われているに過ぎない。たとえば、沖縄や奄美大島では、天然の藍染めが行われている。アイのなかに生地を入れ、繊維のなかまでしっかり色素が入るようにもみ込む。生地を引き上げると、布は緑みを帯びた色から藍色へと変化。

 アイは空気に触れると酸化して発色するので、「染め」と「空気に触れさせる」という作業をくり返し、深い藍色に染め重ねていくのだ。水洗いして乾かし、最後に色止めをしてさらに乾かしてできあがる。

紫は帝王の色

 古代の海洋国家フェニキアでは、貝を使って紫色の染色が盛んに行われた。それが貝紫だ。ホラガイ、レイシガイなどのアクキガイ科の貝の内臓のパープル腺にある無色ないし淡黄色の分泌液を取り出して繊維にすり付け、空気中で酸化すると、赤味がかった紫色に変化するのだ。

 貝紫の製造はフェニキアの港町ティルスで始まったとされ、「ティルス紫」と呼ばれた。ギリシア神話では英雄ヘラクレスが発見したとされている。飼い犬が貝をかみ砕いたときに口が濃い紫色に染まるのを見たのだ。

 貝にふくまれる貝紫は著しく少なく、一グラムの貝紫を得るには約九〇〇〇個の貝が必要となる。そのため、高価であり、王侯貴族や高僧しか着られなかったので「ロイヤルパープル(帝王紫)」と呼ばれた。今日でも紫は帝王の色であり、王の象徴だ。貝紫をとるために貝があまりにも大量に採取されたため、四〇〇年頃絶滅に瀕したという。

 アイの葉からのインジゴや貝紫などの天然染料の産業は、合成染料の登場とともに衰退した。

 さて、現在でも利用されている天然染料の一つはコチニールである。コチニールは、サボテンに寄生するコチニールカイガラムシという昆虫から抽出した色素だ。エンジムシとも呼ばれ、ペルーやメキシコなど中南米に生息している。

 現地の人たちは、マヤ文明やインカ文明の頃から、布織物の染料や口紅など化粧品の材料に用いていた。スペイン人は、新大陸に上陸するとコチニールを専売するようになった。この染料は十六世紀から十九世紀のあいだ、スペイン、イギリス、植民地時代のアメリカにとって羨望の的だった。なぜならば、自然で鮮やかなピンク色が得られるのはコチニールカイガラムシに限られたからだ。

 なお、コチニールは、現在でも染め物、食品の着色(天然着色料として食品添加物になっている)、化粧品および薬品の着色に使われ続けている。コチニールの主要生産国はペルーだ。サボテンプランテーションでコチニールカイガラムシを大量に飼育している。

(※本原稿は『世界史は化学でできている』からの抜粋です)

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左巻健男(さまき・たけお)

東京大学非常勤講師
元法政大学生命科学部環境応用化学科教授
『理科の探検(RikaTan)』編集長。専門は理科教育、科学コミュニケーション。一九四九年生まれ。千葉大学教育学部理科専攻(物理化学研究室)を卒業後、東京学芸大学大学院教育学研究科理科教育専攻(物理化学講座)を修了。中学校理科教科書(新しい科学)編集委員・執筆者。大学で教鞭を執りつつ、精力的に理科教室や講演会の講師を務める。おもな著書に、『面白くて眠れなくなる化学』(PHP)、『よくわかる元素図鑑』(田中陵二氏との共著、PHP)、『新しい高校化学の教科書』(講談社ブルーバックス)などがある。