なぜ人は「質問すること」に戸惑い、躊躇するのか?なぜ人は「質問すること」に戸惑い、躊躇するのか? Photo:PIXTA

英国の経済メディア「エコノミスト」のポッドキャストで「人間にできてAIにできないものは何か?」というテーマに対する一般人からの回答結果が紹介されていました。考えさせられたのが2位の「質問すること」です。なぜ「質問すること」は、人間にできてAIにできないのか? 人間の価値を決める「質問すること」の真の意義は何か? このことについて考えてみたいと思います。(一橋大学名誉教授 石倉洋子)

人間にできて
AIにできないもの

 みなさんも、講演や説明などを聞いた後、「ここの意味がよくわからなかった」「もう少し詳しく聞きたい」と思った経験はお持ちでしょう。

 1度ですべて理解できる人なんてそうそういないので、このことは至極当然のことです。1人が疑問に思ったということは、ほかにも同じような疑問を持っている人が多い可能性も高いわけです。ですので、「質問すること」は歓迎されるべきはずですが、なかなかそう簡単に実行できないようです。

 先日、英国の経済メディア「エコノミスト」のポッドキャストを聴いていたところ、「人間にできてAIにできないものは何か?」というテーマに対する一般人からの回答結果が紹介されていました。

 回答結果の1位は「死ぬこと」。これには「なるほど」と納得し、それ以上は特に何も感想を持たなかったのですが、いろいろと考えさせられたのが、2位の「質問すること」です。

 人間にできてAIにできないことが「質問すること」だとすれば、「どのような質問をするか?」「どう質問するか?」がきわめて重要と思いました。同時に、人間が「質問しない」「質問できない」場合、やがては人間の存在意義をAIに奪われてしまうのではないかとも思いました。

 日本人が持つ「質問」に対する考えかたは、海外や外国人の「質問」に対する考えかたとだいぶ異なる、私はこのような印象を持っています。私のこれまでの経験上、多くの日本人は、「質問すること」に対して躊躇(ちゅうちょ)や戸惑いを感じたり、ネガティブな印象を持っていたりすることが多いように感じます。最近は変わりつつありますが、それでも参加者の大多数が日本人であるセミナーでは、講師や登壇者への質問やコメントはなかなか出ません。一方、参加者の多数が外国人であるセミナーや海外の講演会で登壇したときには、積極的で活発な質問やコメントが多く出てきます。

 日本と海外のこうした違いを見ていると、特に日本において、「質問すること」の認識を変え、質問するスキルを上げていかないことには、海外に先んじてあっという間に、急速に進化しているAIにその立場を奪われてしまうのではないかと懸念しています。そのような事態に陥る前に「質問力」を高めていくことが、緊急の課題と感じています。

 日本において多くの人がなぜ「質問すること」に戸惑い、躊躇するのか? 要因は大きく分けて2つあります。