【お寺の掲示板92】「仏の顔は三度まで」ではない超覚寺(広島) 投稿者:@chokakuji  [2021年8月1日] 

堪忍袋の緒が切れるタイミングは人それぞれです。その点、仏さまは3回までなら許してくれると信じていましたが、どうやらそういう訳でもないようです。お釈迦さまの逸話を元に考えてみましょう。(解説/僧侶 江田智昭)

「仏の顔」は何度でも?

「仏の顔も三度まで」ということわざは、みなさんも聞いたことがあると思います。正確には「仏の顔も三度」。どんなに温和な人であっても、無法なことをたびたびされるとしまいには怒ってしまうというたとえです。これは、江戸時代の頃に使われていた「仏の顔も三度撫(な)ずれば腹を立つ」という表現に由来しています。

 仏さまは、なぜ三度無礼をされると怒るのか?

 これにはさまざまな説があり、正確なことがよく分かっていません。一説には、釈迦族がコーサラ国によって滅ぼされたときのエピソードから来ているといわれています。コーサラ国王のヴィドゥーダバは釈迦族による無礼に憤慨し、釈迦族が住むカピラ城に3度攻め込みましたが、そのたびにお釈迦さまの説得を受けて兵を引き揚げていました。

 ところが4度目に攻め込まれたとき、お釈迦さまは宿縁を悟り、相手を説得しませんでした。その結果、コーサラ国の軍隊はカピラ城の中で残虐の限りを尽くし、釈迦族は殲滅(せんめつ)されてしまいます。このとき、お釈迦さまは「7日後にヴィドゥーダバとその軍隊は死ぬだろう」と予言しました。その通り、増水した川に彼らは流され、死亡したそうです。

 強調しておきたいことがあります。このエピソードの中で、宿縁を悟ったお釈迦さまは怒っていません。ヴィドゥーダバに復讐したわけでもありません。それにもかかわらず、「4回目で怒った」と解釈されては、お釈迦さまとしてはおそらく非常に不本意なことでしょう。

 お釈迦さま以外にも数多くの仏さまがいらっしゃいますが、みなさん、3回や4回の無礼で腹を立ててしまうような心の狭い方々ではありません。例えば、阿弥陀仏はどんなことがあっても決して見捨てない仏さまだと言われています。阿弥陀仏は、どんなに無礼をはたらいた人間でも、大罪を犯した極悪人であっても、分け隔てなく救い、決して怒ることはありません。人知を超えた無限の慈悲によって、人々を温かく包みこんでくださるのです。

「仏の顔も三度まで」ということわざが、いつの間にか人口に膾炙(かいしゃ)し、仏さまは三度までしか赦(ゆる)してくれないと思い込んでいる人たちが多いかもしれませんが、決してそうではありません。「仏の顔も三度まで」ではなく、「仏の顔は何度でも」という言葉の方が、仏さまの表現としては正確であるということを覚えておいていただければと思います。