三菱の結束力の根源とは?財閥解体に抵抗した岩崎小弥太の「憤死」騒動Photo:PhotoAC

「最後の財閥」「最後の企業集団」と言われる三菱。第二次世界大戦後、GHQは財閥解体に動き出した。しかし具体的な手順は決まっておらず、数日の間に三菱、日本政府は奔走した。
※本稿は、菊地浩之著『最強組織の実像に迫る 三菱グループの研究』(洋泉社)の一部を再編集したものです。登場する企業名などは2017年5月発行当時のものです。

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GHQ「資産家層に富が集中し、戦争遂行に協力したから」
反発した三菱

 敗戦によって、日本は米軍を中心としたGHQの占領下に置かれた(1945年8月~1952年4月)。

 GHQは、日本が世界大戦を起こすだけの力を持ち得た要因の一つに、財閥と一握りの資産家層に富が集中し、かれらが戦争遂行に協力したからと考えた。そのため、財閥と資産家層の徹底的な解体を試みた。それが「財閥解体」である。

 ただし、GHQでも解体方法・手順について具体策があったわけではなく、とにかく四大財閥から自発的に解体計画を提出させようとしたらしい。

 一方、各財閥の「財閥解体」に対する見通しは甘く、三菱では社長を岩崎小弥太(弥之助の長男、1879~1945)から岩崎彦弥太(久弥の長男、1895~1967)に交代する程度の自主改革案を立案していた。

 しかし、1945年10月15日にGHQは一切の妥協なく財閥を破壊する方針を発表し、各財閥の楽観論は打ち砕かれ、18日に安田財閥が自発的解散を表明。21日に三井財閥、22日に住友財閥が自発的に本社を解体する意向を表明した。

 こうした中、小弥太は「三菱が国家社会に対する不信行為をした覚えはなく、また軍部官僚と結んで戦争を挑発したこともない。国家の命ずる所に従い、国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべきところは何もない」という信念に基づき、自発的な解散を拒否。GHQの指令による解体を望んだ。