伊藤忠Photo by Ryosuke Shimizu

トヨタの戦後成長を
支えた元技術将校

 瀬島龍三の場合は敗戦から13年が過ぎた後の就職だが、軍隊がなくなって、公的機関や民間企業に職を求めた人数は多い。

 敗戦時、陸軍と海軍にいた人の数は約719万人(『昭和国勢総覧(下巻)』東洋経済新報社)。うち、戦傷、行方不明、戦死者の数は約186万人。数は一部、重複するけれど、敗戦時、海外にいた軍人軍属、民間人は約660万人。こうした人々がすべて国内で職を探して食っていかなくてはならなかった。

 瀬島もまた日本に戻ってきて、職を探した人のうちのひとりで、自衛隊でさえなければどんな仕事でも良かったというのが本音ではないだろうか。瀬島は「本郷さんの親切に感動した」と記している。

 戦後、高原、瀬島に限らず、伊藤忠には元軍人が入社している。元軍人たちは警察予備隊、後の防衛庁に入る者が多かったと思われているが、瀬島のように軍隊組織に屈託を感じた男たちは平和産業に進んでいる。

 彼らは公的機関や民間企業に入り、現場の仕事、組織運営、技術開発に励んだ。なかでも、まとまった数の元軍人を採用したのがトヨタだった。

 副社長、副会長になったトヨタ元幹部、池渕浩介は「あの方たちが(トヨタの成長に)貢献したのです」と語った。

「戦争が終わったばかりの頃、豊田喜一郎さんは『乗用車を造るんだ』と兵隊から帰ってきた技術者を200人も採用しているんです。戦前のトヨタにはそれほど優秀な技術者は入ってくれませんでしたから、この時の200人はトヨタの礎を築いてくれました。喜一郎さんの先見の明です。しかも終戦直後だったから、人を採ることができた。その後は労働争議で人員整理をするわけですからね。

 終戦直後に入ってきた人たちは陸士や海軍兵学校を出た技術将校で、ほんとに優秀でした。彼らはトヨタに入ってからも勉強されてました。ものすごい勉強量だった。仕事をするか勉強をするか。分厚い洋書を抱えて仕事場に来ていました。あの頃のトヨタは設備や機械を輸入する金がなかったから、自分で考えるしかない。あとは責任感ですか。戦争に負けたから、日本をなんとかせないかんという思いがあったんですよ。なかには特攻に行って、生き残って入った人もいたわけです。そういう人たちはみんな魂があった。あいつは死んだ。オレは生き残った。日本のため、みんなのために、なんとか復興せないかんと心に決めていた。

 それに比べると戦後入社の僕らは若造の腰抜け学生ですよ、ノンポリの腰抜けでしかも頭もよくない。それでも、先輩たちにしてみれば、こいつらをなんとか鍛えようと思ったんでしょうね。殴られたり蹴られたりといったことは一切、ありませんでした。情熱で教えてくれた。我々を受け入れて、上手に鍛えてやろうという雰囲気だったですね。

 あの時代はみんな貧しかった。だから働きたかった。働いて稼ぎたかった。働けること自体が喜びだったんです」