農協の大悪党#14

農協界のドンで、元小泉チルドレンでもある中川泰宏は、地元の町長を務めつつ、国政への進出を虎視眈々と狙っていた。1998年には参議院議員選挙に自民党公認候補として出馬を目指したが、自民党幹事長代理だった野中広務が首を縦に振らなかった。チャンスを逸した中川は野中への怨念を募らせていく。連載『農協の大悪党 野中広務を倒した男』の#14では、中川と野中が完全に決裂するまでの全内幕を描く。(ダイヤモンド編集部 千本木啓文)

冷遇された中川泰宏は自民党を離党し
野中広務の政治生命を脅かした

 自民党幹事長、内閣官房長官にまで上り詰めた野中広務は、同郷の貸金業者にすぎなかった中川泰宏に地元の権力基盤を崩されることになった。

 その要因は、政治とカネの問題や、中川のJAグループ会長就任を阻止しなかったこと(本連載#4『野中広務が陳情されたJAグループ京都「会長人事介入」、政治史の知られざる分岐点の顛末』参照)など多岐にわたるが、中川の恨みを買い真っ向から対決する構図をつくったという意味で、1998年の参議院議員選挙で野中が中川に自民党の公認を与えなかったのは最も大きな出来事だった。

 同年の参議院議員選挙で自民党は大敗し、橋本龍太郎内閣は総辞職に追い込まれた。その後誕生した小渕恵三内閣で野中は官房長官に就任する。結果的に、野中の肩書は選挙前の「自由民主党幹事長代理」から「内閣官房長官」に格上げされた。

 しかし、それは中央政界での話である。地元・京都では野中の凋落の始まりといっても過言ではない大敗を喫していた。30年以上自民党が勝ち続けてきた参議院の京都府選挙区の議席を失ったのである。

 この選挙で、中川を自民党公認候補にするかどうかですったもんだしたことが、党の結束を弱め得票数の減少につながった。この敗戦を境に野中の求心力が低下してゆく。