お笑い、好きですか? わたしは好きです。芸人さんってめちゃくちゃ頭いいですよね。奇想天外なボケに対してコンマ何秒単位で調節された絶妙のタイミングで繰り出されるツッコミ。会話の芸術ですよ。だからつい勘違いしちゃうんです。「おもしろいのはツッコミ役だ」って。この前のM-1グランプリ観ました? 錦鯉。あの「審査員」のラインナップを見て気づいたことがあるんです。オール阪神・巨人の巨人、サンドウィッチマンの富澤たけし、ナイツの塙宣之、ダウンタウンの松本人志、元海原千里・万里の上沼恵美子。全員に共通していることがあります。みんな「ボケ担当」なんです。中川家の礼二はツッコミ担当のはずですけど、ボケの方が有名ですよね。立川志らくもいますけど、落語はボケそのものでしょう。なぜ、ボケ担当が「おもしろさ」を評価する立場になれるのか。そこに大事なことが隠されていました。関西弁のエッセンスから「人が幸せになる会話」を紐解く『会って、話すこと。』という本があります。著者の田中泰延氏は生粋の大阪人です。彼は言います。「日常会話にツッコミはいらない」と。なんでやねん。お笑い好きの方、ぜひご意見聞かせてください。(構成:編集部/今野良介)

ボケは「仮説の提示」

会話で、よく「ボケをかます」などという。その正体は何か。

たとえば、傘のことを指差して「これバナナちゃう?」と言ってのける行為のことである。

だれが見てもそれはバナナではない。円筒形で、細長い、形状に多少の相似はあるかもしれないが、それは雨が降った時に使用する道具である。食べられないし、黄色くもない。

発話者は、形状がやや似ているというだけで、「もしかしてこれは傘ではなく、バナナである可能性がある」と主張しているのである。

たいしておもしろくもないし、斬新な主張でもないが、彼がしようとしていることは何か。

それは、いま目の前にある現実世界に対する、別の視点からの「仮説の提示」なのである。

① 話者が現実に対して「ボケ」という仮説を提示する
② 他者がその仮説を一旦認定し、他の事象を例示する
③ 両者が法則性を発見し、他の事象に演繹する
④ さらにもう一度全体に帰納する
⑤ 現実世界への見え方が変化し、新しい認識が生まれる

会話にこのプロセスがあることが「笑い」であり、すべては対話の過程で起こる。

じつは①の「ボケ」の提示が、豊かな会話への出発点なのである。

①のあと、即座に「それはバナナではない」などとあたりまえのことを指摘する、それが「ツッコミ」である。

その行為は我々会話する者同士に⑤のような世界への新たな認識をもたらさない。日常会話に「ツッコミ」は不要なのである。

「ツッコミがおもしろい」という壮大な勘違い「重箱の隅をつつく男」かよ!

じつは、「ツッコミ」は漫才や落語などの【舞台演芸上の職務】であって、現実の会話にはまったく必要がない

日常会話のおもしろさは【仮説に仮説を重ねる】ことにある。相手が突然提示した「ボケ」の姿勢を肯定し、現実から離陸した世界をお互いに発見する。

こむずかしく説明したが、「ボケ」には「ボケ」を重ねる、会話の楽しさはこれに尽きる。

では、日常会話における「ツッコミ」とは何なのか。