館稔・人口問題研究所長
 少子化・人口減少に悩む現代の日本だが、戦前は「狭い国土に8000万人(当時)という人口を収容できるか」という懸念が支配的で、それが中国大陸への進出という形で戦争の引き金ともなった。そして戦後、戦地から兵士が復員し、日本だけでなく多くの国でベビーブームが発生した。敗戦による食糧難の中、当時の政府は人口増加による生活水準の低下を恐れた。そこで、政府は1948年に「優生保護法」を施行、人工妊娠中絶を合法化した。ベビーブームによる人口爆発を人工中絶によって避けようとしたのである。その効果はてきめんで、出生率は49年の4.32をピークに翌50年からは激減していく。さらに国立公衆衛生院を中心にして産児制限運動を展開し、国を挙げて人口を減らす努力を続けた。

 そんな時代の「ダイヤモンド」56年9月18日号に掲載された人口問題研究所長の館稔(1906年11月11日~72年3月21日)のインタビューが非常に興味深い。ちなみに56年には、今の出生数より多い年間116万件の中絶が行われている。人口調整が見事なまでに功を奏していた頃である。そんな中にあって館は、人口増加率の急速な低下に大きな懸念を示し、人口動態に警鐘を鳴らしているのだ。

 例えば、後に「団塊の世代」と呼ばれるようになるベビーブーマーたちは当時まだ10歳前後だが、ここから数年で中学を卒業していく。当時は高校進学率が60%そこそこだから、4割近くが中卒で社会に出てくるが、まだ高度成長も始まっていない。館は「生産年齢人口の大激増に適応する経済政策を立て、国民経済をマッチさせる必要がある」と当面の課題を指摘する。その一方で、長期的には少子高齢化が進むことを予測、老人向け雇用の拡大と、年金をはじめとする老人対策の確立、子どもの減少に伴う教育の質の向上にまで言及している。56年の段階でここまで見据えた発言をしていたことには驚きを禁じ得ない。

 ところが、日本は館の先見性とは違う方向へ進んでいく。74年6月に発表された『人口白書』には「静止人口をめざして」という副題がついている。静止人口とは、人口が増えもせず減りもしない状態のことを指す。終戦から約30年がたち、ベビーブーマーたちが出産適齢期を迎えていたのに加え、石油ショックを経て、エネルギー問題、食糧問題の観点から、世界規模で人口爆発を食い止めることが課題として掲げられていたのだ。同年8月には「世界人口会議」がブカレスト(ルーマニア)で開かれたが、それに先駆けて日本でも7月に「日本人口会議」が開かれている。このとき、日本も世界的な人口増加の抑制に貢献すべく、「子どもは2人まで」という宣言が採択されている。

 そして皮肉なことに、日本の出生率は翌75年に「2」を割る。そしてその後は、坂道を転がるように低下の一途をたどったのは周知の通りだ。人口問題において、意外に政策が“効いてきた”事実に驚くと同時に、その裏目ぶりは残念至極である。「日本経済の長期計画というものは、いろいろありますが、人口問題から見るといずれも短期計画の理論ばかりです」と館は言う。50年先、60年先を見越した政策を望むのは、昔も今も無理のある話なのだろうか。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

出生・死亡率の急低下
日本は世界の文明国中最低

「ダイヤモンド」1956年9月18日号1956年9月18日号より

――先日の総理府の発表では、今年の7月1日現在でわが国の人口は9000万に達したと発表されましたね。従来の観念で考えると、日本もとうとう9000万人になったのかといった、長嘆息交じりの気持ちで受け取られるのですが、戦後特に最近のわが国人口問題の特色というか焦点というものは、非常な変わり方をしていると思うのですが、どうでしょう(聞き手はダイヤモンド社顧問・星野直樹)。

 大変な変わり方ですね。まず目に付くのは、人口全体としては増加率が、最近ぐんぐんと下がってきていることです。そしてこの傾向は、なお続いていくと思われます。しかしこんなに増加率が低下してきていますが、1965~70年には1億人口が現出すると見通されます。だから長期的には1億人口ということが、一応の目標となるでしょう。

――現在の出生率は、どれくらいですか。