頼朝と信仰Photo:PIXTA

現在放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、源頼朝率いる源氏軍がついに挙兵。源平合戦が始まった。ドラマを見ている方はお分かりかもしれないが、源頼朝は信仰心が厚い人物だった。彼の神仏への信仰心は、戦の日取りにも影響を及ぼした。源氏の挙兵前後の時期における出来事から、頼朝の信仰心についてひもといていこう。(歴史学者 濱田浩一郎)

中世の戦の「日取り」には
信仰心が深く関わっていた

 源頼朝は、治承4(1180)年8月17日に挙兵した。

 平家方の伊豆国の目代(代官)、山木兼隆を倒すこの初戦にも、中世の人々が持っていた「神仏への信仰心」が鮮やかに浮かび上がってくる。雨が降り続いていた挙兵の前日(16日)、頼朝は神仏へのお祈りに尽力していた。

『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)には、明日の合戦に勝利するように、ご祈祷(きとう)を「始行」したとある。神職の住吉小大夫昌長は、頼朝の命を受けて、天曹地府祭なるものを始めた。これは、陰陽道の儀式で、地獄の閻魔(えんま)庁の役人をまつり、祈祷を捧(ささ)げるものである。

 また、住吉と同じく神職の永江藏人頼隆は 「一千度のお祓(はら)い」を勤めた。いずれも、明日の戦に勝利するようにとの祈りである。

 そうした中で、ハプニングが起こる。16日に到着すると言っていた佐々木四兄弟(近江出身の武士、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱の四人)が姿を見せないのだ。ただでさえ、少ない軍勢。そうであるのに、佐々木らが加勢しないのならば、戦がさらに不利になるのは、間違いない。

『吾妻鏡』には、明日、山木を攻めるのを躊躇(ちゅうちょ)したと記されている。ならば、もう少し佐々木兄弟を待って、一日空けて、18日に挙兵すればよいと思うが『吾妻鏡』によると、それはできない相談だという。なぜか。