いすゞ自動車の荒牧寅雄社長と米ゼネラルモーターズ社のジェームス・ローチェ会長提携協定書に調印後、握手するいすゞ自動車の荒牧寅雄社長(左)と米ゼネラルモーターズ社のジェームス・ローチェ会長 Photo:JIJI

1年半を費やし
いすゞとGMが提携

 クライスラー、フォードに振られた伊藤忠交渉チームは、「当たって砕けろ」の覚悟で世界一の自動車会社GMにアプローチすることにした。

 GMの存在は大きかった。相手がGMであればビッグスリーの二つの会社からNOと宣告されたスタッフも士気は上がる。室伏稔、酒井隆のふたりは「やりましょう。このままでは引き下がれません」と気迫を込めて瀬島に迫った。

 室伏、酒井は瀬島に「GMのトップ、ローチェ会長とのルートを見つけました」と報告した。室伏が旧知だったアメリカの鉄道会社トップがローチェ会長に面識があり、紹介してくれると言ってきたのだった。

 室伏が連絡してみると、ローチェ会長ではなく、日本メーカーとの提携に前向きな企画担当、ロックウッドが出てきた。室伏はロックウッドに、フォードに提案したものとほぼ同じ内容のプロポーザルを渡し、交渉に入る。

 フォードに渡したものとの違いは、いすゞは赤字の乗用車部門だけではなく、黒字の商用車部門も併せてGMと提携するといったものだった。フォードとの交渉時に指摘された部分を考え直したのである。

 いすゞも世界一の自動車会社が相手であればトラック、バス部門も提携しなくてはならないと覚悟したのだった。

 GMはクライスラー、フォードよりも調査に長い時間をかけた。GMの調査チームは日本にやってくる前から1台のいすゞ乗用車を買って徹底的に分解し、使っている部品、いすゞが採用した技術を精査したのである。

 その後、来日して生産現場と販売店を見て回った。伊藤忠、いすゞとフォードの提携交渉は8カ月かかったが、GMとは1年半というさらに長期の時間を費やしたのだった。

 伊藤忠、いすゞ、GMが交渉していた間、日米の自動車会社間では動きがあり、クライスラーと三菱自動車、フォードと東洋工業の提携のニュースが流れた。

 また、この間、いすゞは伊藤忠、GMに知らせないまま、日産の小型乗用車チェリーの受託生産を始めていた。

 伊藤忠は「いすゞは日産と業務提携するのか」と疑心暗鬼になったが、いすゞはラインの稼働率を上げるための生産施策だと割り切っていた。

 事実、他メーカーの生産受託はいすゞだけがやっていたわけではなく、富士重工もラインの稼働率を上げるため日産サニーの生産を受託していた。自動車会社の間では行われることもあった生産施策だった。

 その証拠に、いすゞが日産車の受託生産をしたことを聞いても、GMはまったく動揺しなかった。かえって「いすゞが考えたことだ」と伊藤忠に伝えてきた。

 それを聞いた瀬島は、「さすが大横綱の態度」と大感激している。

 ともあれ、伊藤忠はいすゞに振り回された形になったが、1971年、提携は決まった。GMがいすゞの株式34.2%を取得することで合意したのである。