SNSが誕生した時期に思春期を迎え、SNSの隆盛とともに青春時代を過ごし、そして就職して大人になった、いわゆる「ゆとり世代」。彼らにとって、ネット上で誰かから常に見られている、常に評価されているということは「常識」である。それゆえこの世代にとって、「承認欲求」というのは極めて厄介な大問題であるという。それは日本だけの現象ではない。海外でもやはり、フェイスブックやインスタグラムで飾った自分を表現することに明け暮れ、そのプレッシャーから病んでしまっている若者が増殖しているという。初の著書である『私の居場所が見つからない。』(ダイヤモンド社)で承認欲求との8年に及ぶ闘いを描いた川代紗生さんもその一人だ。当連載では、「承認欲求」という現代社会に蠢く新たな病について様々な角度から考察する。

悩みがなく気楽にシンプルに生きるのが幸せという風潮についてPhoto: Adobe Stock

「そんなことで悩むのは時間の無駄」という言葉の違和感

「川代さんさあ、そんなことで悩んでても、仕方ないじゃん。いつまでも悩むのに時間使ってたらもったいないよ。そんな暇があるならどんどん仕事して挑戦して、自分が成長できるように努力しなきゃ。人に喜んでもらえることを頑張ろうとするのも大事かもしれないけどさ。そういうことばっかりしてても、川代さん自身は成長できないよ」

ひょんなことで知り合った年上の男は、私にそうアドバイスしてきた。自分の親くらいの年齢の人だ。

はい、そうですよね、と相槌をうちながらも、しかし、私の心のなかは、どうもしっくりきていないようだった。社会人になってから三ヶ月経った頃のことである。

「私はうっかりしているところがあるから、まわりの仕事仲間に、自分の知らないどこかで迷惑かけてるんじゃないかと思うと心配なんです。考えないようにしようと思っても、自分が周りからどう見られているのか、気になっちゃうんですよね。それが悩みといえば悩みですかね」

会って30分くらい経ち、話題がなくなってきた頃、最近、悩みとかあるの? とその人に聞かれた。だから、最近の自分を振り返って、答えた。なのに、どうして「そんなことで悩んでも仕方ない」なんて言われなきゃいけないんだよ、と思ってしまったのだ。彼にとっては何でもないことかもしれない。でもこっちにとっちゃあ重大なのだ。重大な問題について真剣に考えているだけなのだ。それなのに、「そんなこと」で済ませられるのがなんだか、しゃくだった。

そもそも、別にこちらから相談に乗ってくれと頼んだわけでもなかった。ただ質問されたから、自分が思っていることを話した。それだけなのに、自分からきいてきたくせに、なんでそこまで否定されて説教されなきゃなんないわけ? だいたいなあ、悩んでも何も解決しないことくらい、わかりきってんだよ。死ぬほど考えてるんだよ。それでも悩んじゃうもんは悩んじゃうんだから、仕方ないだろーが!! と、内心では人生の大先輩のはずの彼に、ひどい悪態をついていた。

説教する側は持論を話せてすっきりするかもしれないけど、聞いている側は何の予想もしていないときに、自分の考えを(というか悩みを)否定されて説教されても困るわけである。動揺するのである。説教を受けるにも心の準備が必要なのだ。

しかし、先輩の言っていることは、たしかにもっともだった。まあもっともだったからこそ、図星だったからこそ腹が立ったのも事実である。先輩だけでなく他の大人にも似たようなアドバイスを受けたことがあるし、そう書いてある本を読んだこともある。うん、そうだ、わかっている。うじうじ人の目ばかり気にしていても何も変わらない。悩んでも意味のないないことには時間を費やさないべきだ。

そう、頭ではわかっていながらも、心の中にはどこか、もやもやしたものが、ぷかり、ぷかり。なんか、なーんか、違うんだよなあ。自分の心が、そうぶつくさと小さく文句を言っているのがきこえた。

でもまあ結局私は反論することもなく、でも吐き出しようのない不満と小さな怒りを持ったまま、その彼と別れた。もともと、親しいわけじゃない。たまたま機会があったから話しただけのことだった。だいたい、私の悩みを簡単に流されてしまったのも、あまり時間がなかったからなのだろう。