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ローマ帝国「滅亡」の道筋をつくった皇帝たちの「2つの愚かな共通点」とは?Photo: Adobe Stock

あまりにも有名なことわざ

 ローマは1日にして成らず。重要なことを成し遂げるには時間がかかるので、あせっちゃいけない、という意味の古いことわざだ。このことわざは、ローマの歴史に由来する。ここでいうローマとは、完成まで何世紀もかかった世界的に有名な都市ローマと、ローマを中心とする帝国の名前、その両方を指している。

古代ローマの共和政

 エトルリア人たちは、古代ローマ時代の前600年ごろに権力を掌握し、ローマの王として君臨していた。ところが、ローマの人々は独裁者の王たちに反抗し、やがては、エトルリア人たちを破って共和政ローマを築いた。

 共和政とは、市民が投票によってリーダーを選ぶ権利を持ち、そうして選ばれたリーダーが人民を代表して統治をおこなう政治体制のこと。共和政ローマには、新しい法律を提案して投票をおこなう、元老院と呼ばれる議会もあった。

 初期の共和政ローマでは、パトリキ(裕福な上流階級の男性)が元老院を独占していて、プレブス(平民)は参加することができなかった。

 市民に選ばれたコンスル(執政官・統領)というふたりの役人が法律を施行し、プラエトル(法務官)が裁判官の役割を果たし、お金や契約に関する紛争や口論の解決にあたったのだ。

 古代ローマは、北アフリカのカルタゴや、ギリシア、ヒスパニア、ガリア(現代のフランス)を次々と征服していったけれど、内乱のせいで、常に分裂の危機にさらされていた。そんなときに登場したのが、ユリウス=カエサルという軍事指導者だ。

カエサルの独裁体制と暗殺

 カエサルは、クラッススとポンペイウスというふたりの男と手を組んで、第1回三頭政治と呼ばれるものを始める。また、ガリアで軍事的な指揮をとり、成功を収めた。

 ローマの元老院派の多くは、この3人組の新しい統治者たちに不安を覚えた。元老院は、ポンペイウスひとりに統治を任せるべきだと決議したものの、カエサルはその決定を拒否する(おまけに、クラッススが、残りのふたりに並ぶ軍事的な手柄をあげようとして、あえなく戦死してしまう)。

 こうして、前45年、カエサルはポンペイウスを破り、ローマの支配権をわがものにして、みずからによる独裁体制を築き上げたのだ。カエサルは、元老院を自分の味方で埋め尽くそうとしたけれど、それに怒ったのが、元老院の残りのメンバーたちだった。

 前44年、3月15日(この日のことを3月のイデスという)、カエサルが元老院の会議に出席すると、元老院の人々が外衣からナイフを取り出し、カエサルを暗殺してしまった。その結果、それから13年間にわたり、内乱が続くことになる。

 第2回三頭政治は、ローマに秩序を取り戻すために結成された。その3人とは、マルクス=アントニウス(カエサルの右腕)、オクタウィアヌス(カエサルのめいの息子で、養子でもある)、レピドゥス(ローマの大金持ちで、アントニウスとオクタウィアヌスが争うあいだ、だいたいおとなしくしていた)だ。

初代皇帝皇帝アウグストゥス

 幾多の戦争と殺し合いを経て、カエサルの養子のオクタウィアヌスが権力を掌握し、前27年、元老院からアウグストゥス(「尊厳者」)の称号を与えられる。こうして、500年間続いた共和政は終わりを告げ、ローマは帝国となり、アウグストゥスがその初代皇帝になったのだ。

 当時のローマ帝国は、ヨーロッパの一部から、エジプトにかけて広がっていた。征服された人々のほとんどは自由民で、帝国内の領域で構成される属州には、それぞれ独自の総督と軍が存在した。征服された人々は、ローマ市民になることもできたという(税をおさめる義務はあったけれど)。

 アウグストゥスは、養父と同じ運命をたどらないよう、元老院を尊重しながら、14年に亡くなるまでローマ帝国をおさめた。

古代ローマは建築の名人

 ローマは1日にして成らず、とはいいつつも、古代ローマの人々は建築の名人だった。古代ローマの特に有名な建築物のひとつといえば、なんといっても、コロッセウムだろう。そう、剣闘士の試合や、ときには人間と猛獣との戦いがおこなわれた円形闘技場(スタジアム)のことだ。

ローマ帝国「滅亡」の道筋をつくった皇帝たちの「2つの愚かな共通点」とは?

 ローマ帝国の都市は、フォルムと呼ばれる公共広場で知られていた。フォルムは、ローマ市民たちが交易のためにつどい、神殿を訪れ、政治指導者に投票し、軍事的な功績を祝い、友人と会うための場所だった。ローマ最大のフォルムは、フォルム=ロマヌムと呼ばれた。

 初代ローマ皇帝のアウグストゥスは、ローマを世界一美しい都市にしたかった。そこで、前26年から、フォルム=ロマヌムに、豪華な神殿、バシリカ(公会堂)、凱旋門を築きはじめる。

 ところが、476年を迎えるころには、ローマ帝国は正式に崩壊していて、ローマの人々や侵略者たちが、新しい建物を建てるために、貴重な石や金属を次々と略奪してしまった。中世になると、フォルム=ロマヌムは、もともとの使い道がすっかり忘れ去られ、カンポ=ヴァチーノと呼ばれる牛の牧草地に変わり果てていたという!

 それから時代を経て、19世紀になってようやく、考古学者たちがフォルム=ロマヌムを発掘し、遺跡を修復して、もとの輝きを取り戻した、というわけだ。

 古代ローマの人々は、屋内空間に余裕を生み出すアーチつきの建物や像も建てた。当時の最新の発明であるコンクリートも用いたし、交易や軍の移動のための道路も築いた。それから、地方から都市部へと水を運ぶローマ水道も有名だ。公衆トイレや公衆浴場もたくさんあったといわれる。

ローマ法の特徴

 ローマの法律は、長年受け継がれてきたので、現代人にとってなじみのあるものが多い。たとえば、犯罪で告発されたとしても、有罪と証明されるまでは無罪、という原則はその一例だろう。

 古代ローマは、家族がすべての中心だったので、政府は家庭を支援するような仕組みになっていた。女性は、ほかの面ではあまり力がなかったけれど、3人以上の子どもを生むと特典が得られたらしい。一方で、独身男性や子どものいない夫婦は、政府から支援が得られなかったという。

 これをローマ政府の人口増加政策だったと考える人も多いし、男性中心の家族に資産をとどめておくための手段だったと考える人もいる。