『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』著者の読書猿さんが「勉強が続かない」「やる気が出ない」「目標の立て方がわからない」「受験に受かりたい」「英語を学び直したい」……などなど、「具体的な悩み」に回答。今日から役立ち、一生使える方法を紹介していきます。
※質問は、著者の「マシュマロ」宛てにいただいたものを元に、加筆・修正しています。読書猿さんのマシュマロはこちら

人生に「自分の原理原則を貫き通す人」が実は危険である納得の理由Photo: Adobe Stock

[質問]
 いつも参考にさせていただいています。高校3年生です。自分の中に価値基準をつくるにはどうしたらよいのでしょうか。

 私は他人の機嫌を伺いながら今まで過ごしてきました。自分で考えるよりも他人の指示に従う方が楽だったし、そうすれば褒められて簡単に評価が得られたからです。

 しかし高校生にもなると求められるもののハードルは大きくなり、簡単に他人の期待に応えられなくなりました。今までは褒められていたのが失望されるようになり、他人の評価に左右されることが怖くなりました。そして他人と関わることも怖くなり、母親に依存してしまっています。

 進路に関して、一応受験する大学や受験方法は決めているのですが、経済的理由以外に他の大学ではなくその大学に行きたい理由が見つかりません。ましてや卒業後のビジョンなど全く持つことができません。周りの友達は自分の自己実現のためにやるべきことを自分で考えて行動しています。私も他人の評価だけでなく、自分の考えに基づいて行動したいです。ですが、自身で自己決定しようとすると頭が真っ白になってしまいます。

 どうすれば精神的に自立し、自分自身の価値基準にしたがって行動できるようになるのでしょうか。内容に一貫性のない部分があるかもしれませんが、どうかご了承ください。

人生から価値基準が生まれるのであって、価値基準が人生を導くのではありません

[読書猿の回答]
 何らかの価値基準を持てば、精神的に自立でき、将来のビジョンが定まり、他人の評価が怖くなくなり、目標に向かって努力すれば人生の成功が待っている、なんてことはありません。

 その人独自の価値基準なるものは、人生の試行錯誤を重ねる中で少しずつ作ったり壊したり削り取られたりを繰り返しながら形成されるもので、事前に完成品としてインストールしておけるものではありません。人生から価値基準が生まれるのであって、価値基準が人生を導くのではないのです。

 この価値基準の事後性は、次のようなヒトの特性から来ています。

 ヒトは思いつきの考えや衝動的な行動や止むに止まれぬリアクションを「あれは実はこういうことだったのだ」と後から筋道立て、理由付け、正当化することを重ねて生きています。

 実態は行きあたりばったりなのに、後から都合の良い事実だけを拾い上げて、あたかも一貫性があるかのように人生を振り返るわけです。そうした事後的に採用される一貫性の一部が価値基準と呼ばれるものです。

 こうなってしまう最大の理由は、私達が全知でも全能でもないからです。例えば「人を疑ってはならない」という価値基準を持った人が、誰かにこっぴどく騙され人生を壊されてしまうことがあり得ます。つまり事前に採用した価値基準と整合的でない事態に陥ることがままある訳です。

 ヒトが全知であれば、全生涯に適合的な価値基準を事前に選ぶことができるかもしれません。あるいは全能であれば、事前に選んだ価値基準にふさわしくない出来事を力づくで排除できるかもしれません。

 しかし人生は、各人が信じる「思い込み」だけからできている訳ではありません(だとすれば驚きも出会いも欠いた退屈極まりないものになるでしょう)。思い込みを超えた事態に繰り返し遭遇し、思い込みを修正することを重ねていく。これが生きることであり学ぶことでもあります。

 突き放したような解答になってしまいましたが、あなたはゼロから価値基準をつくる訳ではない、と申し添えたいと思います。

 価値基準は人生から生まれます。

 あなたは、これまで十数年間生きてこられた中で、親御さんや友人、その他周囲の人たちに影響を受けて(真似て)、いろんな考えや価値観を既に持っておられます。受け取ったものの一部は無視し、一部は重視することで、その時々に、ある種の価値基準をつくっていたはずです。でなければ、そもそも人に評価される行為を行うこと自体不可能ですから。

 そしてまた、人生のあらゆる場面で通用する絶対的な基準が求められているのでもありません。

 あなたの役に立つかもしれない小津安二郎の言葉を紹介しましょう。

「なんでもないことは流行に従う。重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う」

小津安二郎、岩崎昶、飯田心美の対談「酒は古いほど味がよい」(『キネマ旬報』1958年8月下旬号)。
田中眞澄 編『小津安二郎戦後語録集成 昭和21(1946)年~昭和38(1963)年』フィルムアート社、1989年5月、pp. 296-305に所収

 小津は映画監督なので、ここでいう「芸術」は自分の映画作品のことです。以前に小津映画を見たことがある人なら、はじめて見た映画の断片でも「これは小津の映画だ」と分かるほど、彼は芸術について際立った基準を持ち、それを映画の隅々まで行き渡らせました。

 その小津が、生活の大部分を構成する「なんでもないこと」は流行に、「重大なこと」は道徳に従うと言っているので、なおさら強い印象を受けました。

 あなたはこれまで自然に自分の中に積み重なってきた価値基準を整理して「大規模改修」する必要に迫られています(「新築」するではありません)。

 すでに自分の中にあるものから「流行に従う」でよいものや「道徳に従う」べきものを、まずは選り分けていってはいかがでしょうか。

 それでもなお残る「自分に従う」べき領域こそ、あなたにとっての「芸術」であり、誰にも譲れないあなた独自の価値基準をつくりあげていかなくてはならない「世界」です。

(蛇足)
 どうやら価値基準の大規模な改修が必要になったらしいと分かった時、その不安定さを耐え難いと感じ、完成品として価値基準を手っ取り早くインストールしたいと思った人たちはたとえば、価値基準が明確で、自分の原理原則を貫き通す人に憧れ、これを真似ようとします。

 すべてに自分の原理原則を貫き通す人は確かにカッコよい。

 ヒトには自信ありげに振る舞う人を信頼してしまうという認知上のバグがある上に、我々の多くは(時々、しかし繰り返し)節を曲げてしまうので、そうしないでも生きていける人に憧れてしまいます。

 しかし、なぜ我々の多くが、自分の原理原則を貫き通すことをしないのかといえば、貫き通すコストが(時に)ものすごいことになるからです。

 なので、実のところ、自分の原理原則を貫き通すことは、そのカッコよさ自体が「職業」になって採算が合うか、何らかの仕掛けでコストを他人に押し付けるか(その両方か)でないと、維持できません。

 原理原則を貫き通すカッコよさを「職業」にした例に、昭和の私小説作家がいます。このビジネスモデルは、近年ネットで見られたインフルエンサーにまで継承されていますが、あまり長く続けられないことが実証されているようです。

 本人は原理原則を貫き通して変わらないつもりでも、本人を取り巻く状況や文脈の方は変化してしまい、原理原則を貫き通せなくなるか、本人が奉じる原理原則の方が時代遅れになってしまい、カッコ悪くなってしまうのです。

 我々にできないことをやってのける「カッコよさ」へのあこがれを何らかの形でお金に変換するというビジネスモデルは、当然ですがカッコ悪くなると採算が取れなくなります。それでも原理原則を貫き通すことを維持するには、そのコストを周囲の誰か(多くは家族や取り巻き)に押し付けることに依存せざるを得ません。

 しかし、これはどう考えても格好の良いことではありません。