「横浜の父」こと高島嘉右衛門が横浜にガス灯を建てたのは、明治5(1872)年。これが日本におけるガス事業の始まりといわれており、2022年はそれから150年の節目に当たる。

 そして、明治18(1885)年、東京府瓦斯局からガス事業の払い下げを受けた渋沢栄一が中心となって設立したのが、東京ガスの前身である東京瓦斯会社である。ちなみに、渋沢が最も長く経営トップを務めたのは第一国立銀行(現みずほフィナンシャルグループ)、2番目は東京ガスで16年間となっている。

 都市ガスといえば、いまでは料理や暖房などの熱源として当たり前に使用されているが、当初は街灯としての用途が主流だった。ところが1879年のトーマス・エジソンによる白熱電球の発明で、電気の有用性と汎用性が向上していく。しかし、逆にこれを転機ととらえた東京瓦斯は、ガスを熱源として利用し、一般家庭の日々の暮らしにガスを浸透させる推進役を担ってきた。

 こうして関東圏の社会インフラの一端を担うようになり、いまは脱炭素という世界的な課題解決のリーディング企業の一社として、その一挙手一投足が注目されている。とはいえエネルギーリテラシーは、門外漢である一般事業会社のビジネスリーダーにすると、特定部門の担当でもなければ、なかなか身につかない。そこで、ビジネスリーダーの脱炭素・エネルギーリテラシーに資する一助となるよう、東京ガス社長の内田高史氏に、同社の取り組みの紹介を通じて、日本の脱炭素の針路を示してもらった。

原点は「町のガス屋さん」

編集部(以下青文字):東京ガスといえば、エリアでは東京電力、業種では大阪ガスとともに、日本のエネルギー事情を左右する一角を占めるインフラ企業です。だからこそ「東京ガスらしさ」、すなわち一企業としての独自性について教えてください。

カーボンニュートラルへの<br />リーダーシップ東京ガス
取締役 代表執行役社長CEO
内田高史
TAKASHI UCHIDA
1956年千葉県出身。東京大学経済学部卒業後、1979年東京ガスに入社。2010年執行役員・総合企画部長、2013年常務執行役員・資源事業本部長、2016年副社長を経て、2018年4月から社長に就任。現在、日本ガス協会の副会長も務める。

内田(以下略):私どもは1885年に創業した都市ガス会社です。お尋ねの東京ガスらしさですが、インフラ企業というかっこよい存在というよりも、創業から一貫して、いつもお客様の隣にいる「町のガス屋さん」という表現がしっくりきます。町のガス屋さんとしてお客様と一緒にガス事業を発展させてきた。私はそう思っています。

 創業まもない明治後期、主力だったガス灯事業は全盛を迎えたものの、「街の明かり」の役割は次第にガス灯から電灯に移っていきました。そうした中、当社は料理や暖房など熱源としての家庭での浸透を目指し、ガスの有用性を訴求していきました。

 1902年にはガス炊飯竈を考案・実用化するなど、メーカーのようにガス炊事器具を開発しました。大正初期の1913年には料理教室も開催しています。ガスを使ったことがない生活者の皆さんに、レシピとともにガス機器の使い方をお知らせすることで、薪や練炭よりもガスのほうが便利で扱いやすいことを体験してもらうためでした。こうしたガス機器開発や料理教室開催などの取り組みは現在も続いており、都市ガスの普及に努めています。

 さらに高度成長期に入り、工業用を中心としたエネルギー需要の増大に伴い公害が深刻化・社会問題化する中、当社は「東京に青い空を取り戻す」というスローガンを掲げ、都市ガスを石炭・石油由来からクリーンなLNG(液化天然ガス)に転換することを決断します。1969年には、LNGを日本で初めてアラスカから受け入れました。

 しかし、これまでと熱量が異なるLNGを原料とする都市ガスをお使いいただくためには、一軒一軒のお客様宅や事業所を訪問し、すべてのガス器具を調整する作業が必要でした。この作業に1日最大1500人、延べ750万人の社員を投入し、17年間をかけてLNGへの転換を完了させました。クリーンなLNGへの転換は、お客様のご協力なくしては成し遂げられないものでした。

 いまでもガス機器の保安点検や修理、ガスメーターの検針など、日々さまざまな業務で当社グループの従業員がお客様宅を訪問し、直接コミュニケーションを取らせていただいています。町のガス屋さんとして、お客様と一緒にガス事業を発展させてきた、生活者と同じ目線で家庭と関わってきた。これが東京ガスらしさだと思います。