東京都三鷹市は、郊外の閑静な住宅街として人気が高い。ここに国立天文台の三鷹キャンパスがあるのをご存じだろうか。この天文台と浅からぬ縁で、今から43年前に誕生したのが、精密機器メーカーの三鷹光器である。売上25億円、従業員は50人にも満たない中小企業ながら、生粋の技術開発型企業で、次々と各種の賞を獲得した。今年7月には「第3回ものづくり日本大賞・内閣総理大臣賞」を受賞するなど、その技術開発力には定評がある。

同社の中村勝重社長は、四男三女の7人兄弟。創業者である中村義一会長は長兄で、勝重氏は四男坊だが、勝重氏も創業時から事業に参加した。1994年、「1ドルが80円に突入した大変な時に、兄が社長をやれと。一番いやな時に引き継いだ」と、勝重社長は笑う。今回は勝重社長に同社の技術の特徴を聞き、次回は開発に臨む独特の考え方・姿勢を語ってもらう。

中村勝重
三鷹光器 中村勝重社長

中村社長:三鷹光器は、もともとは天体望遠鏡のメーカーでした。三鷹市には東京大学東京天文台という大きな天文台があった。いまは独立行政法人になって国立天文台に、名前が変わりましたが、私たち兄弟はその天文台の隣接地で生まれた。

 実はうちの父が、三鷹の数十万坪という土地に住んでいる農家の人たちの立ち退き調整役になって大変な苦労をし、天文台を作ったという経緯があるんです。父からは、ドイツから輸入されたものすごい天体望遠鏡を、馬車で運んだという話を聞いたことがあります。当時は、天文台を置くぐらいですから、タヌキが出るような田舎だったんですよ。

 そんな関係で私たち兄弟は、外の子供さんと遊ぶよりも、天文台の敷地の中で「おじさん、何やってんの」というような環境の中で育った。今の価格で言えば、数百億円もするようなカールツァイス社製の望遠鏡を見て育ったんです。そこで、我々は宇宙そのものより、この望遠鏡はどうやって作られているんだろうかということに、興味を持ったんですね。

 兄(義一会長)は父と一緒に、(天文台の)仕事をしていたのですが、官公庁関係の仕事は、大学を出ていないと給料が高くない。それで兄は、「会社を興して頑張ろう」ということで創業した。わたしも工業高校を出て、モノを作るのが好きだったので、兄と一緒にスタートしました。

その後、三鷹地区も開発の波が押し寄せ、空も急速に明るくなっていく。観測の方法も、地上からの観察ばかりでなく、ロケットや人工衛星を活用したものへと変化していく。

 我々はその流れに、ついていくしかなかったというわけです。ですから、天体望遠鏡といっても、手がけているのは、特殊な望遠鏡。例えば、南極のオーロラを見るための望遠鏡、日食観察専用の望遠鏡、小さなビルがすっぽり入ってしまうような巨大な気球に載せる望遠鏡、それからハレーすい星のように、別軌道で回っている天体を追っかけて行く望遠鏡などを開発してきた。
 
 みなさんがよく知っているオゾンホールを発見した観測機器も、うちが作ったものです。それからブラックホールというのをご存知ですか。質量がものすごく大きくて、光も音もすべて吸い込むので、宇宙では真っ暗に見える部分ですが、これを発見したX線望遠鏡も当社が作りました。だれも気づいてくれませんが(笑)。月を回った「かぐや」にも、当社の観測機器が載っていたんですよ。