第3回「求める人材像は石川遼!?若手を潰す現実離れした過剰な期待」に対して、アメリカ・シリコンバレーで大学の教員をしている読者(日本人)から「なんで若者が潰れるの?」という疑問が寄せられました。「米国の学生なら、それがモチベーション・アップにつながり、大いにがんばるだろう」と彼は言います。その差が生まれてしまう背景には、一体どんな理由があるのでしょうか。(ダイヤモンド社人材開発事業部副部長・間杉俊彦)

「期待されるのが
なぜプレッシャーになるの?」

 今年の年始、中学・高校の同級生で、米国の大学を出て、そのまま現地で就職してサンフランシスコに住む友人と会いました。毎年、年末に日本に帰ってくると同級生が集まって忘年会や新年会をするのが慣わしになっています。

 日系の大手建設会社を退職して、いまは加州立サンノゼ大学で建築デザインを教える彼は、当連載を読んでくれています。仮にキムラ氏、としておきます。

 「石川遼のこと書いたコラムだけど、あれ、なんで“求める人材は石川遼”って言うと、若手が嫌がるの?」と、キムラ氏は言います。

 「米国の学生なら、ものすごいハイ・パフォーマーが理想だ、と企業側が言えば、みんなモチベーションが上がると思うんだ。というか、たとえスキルが未熟でも、平気で自分をアピールする学生が多いと感じる。自分からモチベーションを上げる姿勢には、いつも感心するよ」

 過剰な期待に押しつぶされかねない日本の若手と、米国の若手とでは、思考回路やメンタルの構造がまったく違っている。彼が言わんとするのは、そういうことです。

 これには日米の教育プログラムの違い、経営環境の違い、社会文化の違いが背景にあるでしょう。国民性ないし民族性もある、という指摘でもありますが、ヒトとしての本質的な違いではないはずです。

 前々回に、私はどちらかというと企業側を批判する立場で書きました。大学生に即戦力を期待するのは酷であり、まして石川遼のようなスーパー・スターなどいるはずがない。そんなモデルを突きつけても学生や若手は真似ようがないし、「現実離れした過剰な期待」が若手を潰しかねない、と。

 その考えを変えるつもりはありませんが、少し視点を変えてみます。長期にわたって業務を通じて成長していくプロセスの出発点として、いまの就職=採用がはたして妥当なものかどうか、という視点です。

 日本のような新卒一括採用という採用手法は、実は世界的にも珍しいものです。