連載も6回目を迎えた。例によって締め切りは今日いっぱい。さて何を書こうかとパソコンのキーボードの前で資料を読みながら、ふと思いついた。

 そもそも、この連載のタイトルでありテーマでもある「共同幻想」なる言葉について、読者はどんなイメージを持っているのだろう。連載初回のテーマはスリッパだ。こんなふうに始まっている。

 「小学5年生になる長男が熱を出した。咳も止まらない。近くの小児科に連れてゆく。玄関の扉を開ければ待合室には大勢の子供たち。インフルエンザが流行っているらしく、そのほとんどはぐったりと、隣に座る母親にもたれかかっている。

 靴を脱いだ僕は、玄関の横の靴箱に入っているスリッパに履き替える。長男は二回りほど小さなスリッパ。30分ほど待たされてやっと受診。」

 あらためて思うけれどいきなりだ。唐突にも程がある。共同幻想についての説明がまったくない。だからこの言葉が与えるイメージが読者によってバラバラなまま、この連載はこれまで続いてきた可能性がある。ならばこのへんで一度、この言葉についての解析をしたほうがよいかもしれない。つまり共同幻想なる言葉の共通認識を持たねばならない。

 ……と書き出しながら、僕は早くも嘘をつきかけている。読者のせいにしようとしている。すいません。実は僕もよくわかっていない。何となくイメージはある。ただそのイメージが本来の意味と合致するのかどうか自信はない。だから今回の原稿は僕にとっての勉強もかねる。

 共同幻想は新しい言葉だ。戦後を代表する思想家であり、全共闘世代のカリスマである吉本隆明による『共同幻想論』が、おそらくはこの語源だろう。彼の膨大な著作の中でも、『マス・イメージ論』と並んで最もポピュラーな1冊だ。

共同幻想とは一体、何なのか

 吉本は人と人との関係性を3つに分類した。ひとつは自己幻想。個の内部における個との関係だ。純粋に内面的な観念の領域で、具体的には決して人には見せない日記やメモなど。出版物やブログは違う(と僕は思う)。なぜなら他者性を前提にしているから。

 もうひとつは個と他者性を持つ個とのあいだの1対1の関係。たとえば母と子、兄と妹、恋人、親友などがこれにあたる。これを吉本は対幻想と命名した。